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【適応障害回顧録】7冊目の日記③ 課長は私のパワハラ被害を認める。そして・・・

~旭川から東京へ戻るまで残り1ヶ月近く。私は本社の私への対応、つまり、メンタルヘルス不調者への対応があまりにひどく、一部、パワハラ隠しや就業規則といったルールから外れた対応がされたことに関して納得がいかなかった。そこで、コンプライアンス部門へ申し立てることになる。本社とのケジメをつけた後、私は旭川支店の管理職である笹島課長と話をしたくなる。~

1月19日(交感神経がうまく働かない)

9時半起床

朝から体調が悪い。

脳の興奮が心身に良くない気がしている。

長い間、抗うつ剤と精神安定剤を服用してきた。

交感神経がうまく働かないのかもしれない。

1月20日から23日の間(パワハラ被害よりパワハラ隠しのストレスが苦しい)

この三日間、本社や北海道支社の”臭いものには蓋”という対応に苦しみ色々なものがフラッシュバックしてくる。

あまり、当時の日記にはその時のことが書かれていない。

それに苦しんでいた三日間だった。

1月24日(あんたの人柄ってもんじゃねえか?)

8時起床

9時 朝食、服薬

朝、ゴミを出して、その足で旭川駅から特急列車に乗り札幌駅へ向かった。

午後、主治医の診察が予定されていたからだ。

人生というのは運命の連続なのかもしれない。

主治医の診察のために札幌駅からタクシーでクリニックまで向かうのだが、”裕ちゃんタクシー”にまた乗ることになった。

”裕ちゃんタクシー”の千葉さんとはクリスマス以来だった。迎車の予約もしていないのに”裕ちゃんタクシー”に乗るのはこれで3回目である。

「私ももう療養してから9ヶ月になります。気合が足りないのかもしれない。」と言ったら、「そんなことはない。気合で直すというのは病気を知らない奴とヤブ医者の言うことだ。」と千葉さんは言ってくれた。

そして、旭川の地域の方に自分が2月末、東京へ戻ることを伝えたら寂しがってくれる。別に縁もゆかりも無いのだけどといった話をした。

「それはあんたの人柄ってもんじゃないか」という千葉さんの言葉が胸に響いた。

自分がどういう人間だったか。私は少しずつ、全否定され、粉々に砕かれた自分を思い出し始めていた。


診察記録

喋れなくなったのは神経症的な症状だろうとのことだった。精神安定剤をうまく使うようにとのこと。また、EAPのカウンセラーにも一瞬の精神症状でも喋れなくなったことを連絡をするようにとのことだった。

主治医の診察が終わった後、随分前の話だが、自分の受けた”指導”がパワハラにあたるのかどうか?という点について、社労士の先生に相談していたが東京へ戻る前にこれまでの一連の本社の対応や”臭いものには蓋”という文化が企業として許されるのかどうか?という点について、もう一度、社労士の先生に相談した。

私としては本社や北海道支社の対応があからさまなパワハラ隠しであり、会社の然るべき部門に話をしたいと考えていることを伝えた。

社労士の先生としては、人事部に話をせず、コンプライアンスを担当する部門に主張を伝えるようにとの話だった。

人事部はコンプライアンス違反が一番多いらしい。人事部はパワハラやセクハラといった労務案件を処理する部署だが誤った処理や誤った認識を持つ人が対応することもよくある話らしい。

また、パワーハラスメントを受けて精神疾患になり療養しているが欠勤が長期間に及んだことにより、人事考課が大きく下がってしまうことについて納得できないという話をした。

社労士の先生としては「退職を覚悟しているなら言うべきだが、復職するつもりならそこまで言うべきではないだろう」との話だった。

1月25日(自分で自分を評価できたから今、行きている)

この日はまだ旭川へ戻らず、札幌にいた。

ちょうど自分が好きなアーティストのライブが札幌であったので聞きたかったようだ。”自分で切り開かないとワクワクする明日は来ない”という言葉が心に響いた。

この9ヶ月、自宅療養という立場で会社で働くことはできなかったが孤独を愛して、自分と妻のために必死だった。

サラリーマンとして評価される部分はないだろうが、自分で自分を評価できた。今、ここにいるからである。

1月26日(うつ病で働けない私を気にかけてくれる人もいる)

前日に観たライブの終演時間が遅かったこともあり、札幌に二泊三日した。

午前中の特急電車で札幌から旭川へ帰る。

旭川は札幌より雪が降るから、除雪が回らない様子で真っ白なキャンパスが私を出迎えてくれた。

お昼はお世話になっている宮前通りのパン屋でパンを食べた。

私が2月末に東京へ戻る事になったとお世話になっている地域の方に伝えたところとても寂しがってくれた。

旭川の地域の方とここまで溶け込み、ここまで気にかけてくれる人が僕にもいる。そう思うと嬉しくて夜泣いた。


1月27日(人の言うことを聞け。しかし、自分の思った通りにしろ

今日も朝はゴミ出し当番である。なにか単純なことでも1つ家事ができるようなってよかった。

午前中、家の近くのスーパー銭湯へ行き、お昼ご飯を食べる。

昨日の夜は悪夢を見てものすごい汗をかいた。

早朝覚醒は相変わらず解消されず、なんどか中途覚醒を経験しながらも7時半に起きる。

療養休職に関する手続きの書類が本社から届いたが、一人で見ると辛いと思った。妻と一緒に見る約束をして、自分一人で刺激のある情報を見ないようにした。

午前中、コンプライアンス部門に提出する書類を作った。

発症してまだ2、3ヶ月の夏、東京へ戻ることが決まっていなかったあの頃より文章を作る能力が回復していた。それだけで嬉しかった。

夜、疲れている妻には悪かったが人事部から送付された書類と私がコンプライアンス部門へ送る書類を見てもらった。

人事部からの書類は刺激的な内容は書かれていなかった。いつ、私が休職者となり、東京へ戻ることになるのかといったことが淡々と書かれていた。

”先生”の「人の言うことを聞け。しかし、自分の思った通りにしろ」という言葉が頭をよぎった。

1月28日(”内部告発”をした日)

休職者としての東京への帰任まであと1ヶ月となった。

この日、私は本社のコンプライアンス部門へパワハラ隠しを始め、どうしても人事部のスタッフの対応として納得できない部分に関して報告をした。要するに自分の問題に関して、自分で内部告発をしたようなものである。

覚悟の上であったが、モヤモヤしていたものが晴れてすっきりした。

お昼過ぎ、昼食を美味しそうに食べる妻を見てこれで良いやと思った。

私は退路を立ったが、最高の相棒が一緒である。できないことはない。

妻がいると安心するからか食後、眠くなる。今の私は夫というより子供のようなものだ。

1月29日(旭川支店の課長はパワハラを認める)

朝6時に目が覚める。除雪車の音がうるさい。予定より1時間早く起きたが、体調はそれほど変な感じがしない。

回復している実感がある。手探りで歩いてきたが、振り返ればしっかり結果は付いてきている。私は自分をあきらめない。

コンプライアンス部門から連絡があり結局、私の申告の内容は人事部の管轄ということでコンプライアンス部門から人事部へ回されることになった。

人事部から連絡が来ると言われていたが、メールさえ来なかった。色々とお世話になった局長にはコンプライアンス部門へ報告したことを話した。


コンプライアンス部門に話を出しましたが、人事部に回されてしまいました。悔しいですがもはやこれまでかもしれませんと局長に伝えたところ「直させることより、正直に伝えたいことを伝えたことの方が価値があると思う」との局長の言葉に涙は出なかったが嬉しかった。

私はその後、ふと旭川支店の管理職である笹島課長と話がしたくなった。

妻にも一緒に来てもらい、笹島課長と一緒に夕飯を食べた。半年以上ぶりであった。笹島課長は配慮してくれて、私服で来てくれた。

おかげで職場の課長と話をしているという感じがしなかった。

私の上司からのパワハラを笹島課長は大筋で認めてくれた。私は笹島課長に私の上司のことを頼んだ。笹島課長からは健康を取り戻して、本社に戻れと言われた。

あの上司はいつか部下を自殺へと導く。誰かが止めなければ、方向を変えてあげないといけない。私はもっと笹島課長と働きたかったことを話した。

笹島課長からはまだ、私にパワハラをしてきた上司と話をすることは間に合うのではないか?と言われたが、目の前に現れると私は何をするかわからないと答えた。

1月30日から31日(ストレスゆえか夕食後、吐くようになる)

当時の日記にはこの2日間のことは特に何も書かれていなかった。

 

今、思うこと

自分としてはすべきことをし、笹島課長との久しぶりの再会をしたことで旭川での残りの仕事を1つ果たしたのだと思われる。

この2日間での変化としては、夕食を食べた後にストレスゆえか嘔吐をしてしまっていた。慢性的ではないが、心身ともに限界だったと記憶している。

そして、私は最後の仕事に向かう。旭川支店の高田支店長に私のパワハラ被害を知っていたことを自供させるためだ。旭川支店の最高責任者が私の被害を認めることができれば、そしてその自供を録音できれば、私は逆転無罪になる。今は亡き、当時の自分のために最後の後始末をつけに向かうのだった。