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【適応障害回顧録】7冊目の日記⑤ 愛は人の徳を高める

~旭川にある神居古潭(カムイコタン)。”カムイ”とはアイヌ語で神のいる場所とされ、神聖な場所である。神居古潭は景勝地だが、流れている川は激流で生と死が隣り合わせの場所だ。冬の神居古潭を訪れる人はほとんどいない。訪れる目的が景色をみたり、観光目的ではないからだ。私は旭川を発つ間際、いわば自分の”最後の場所”として決めていたこの神居古潭を訪れた。かつての自分を捨て、新しい自分を創る決意を抱いて。

 

2月17日(精神科も医療過疎)

今年は医療費が札幌へ通院したこともあり10万円を超えた。

医療費控除を受けるための確定申告を行った。

転職うつで苦しんでいる身としては、非常に手間であった。

申告納税とは響きが良いが、転勤うつを発症した私には税務署の仕事を個人に押し付けていると感じられた。

確定申告1つ取ってもそうだが、健康な人を前提に作られているシステムというのはおかしいと思った。

また、知恵のある者が得をするようにできている。

税金や傷病手当金、精神障害者手帳といった社会保障制度をはじめ、自立支援医療もそうだが、知らないと損するなんて国の仕組みであって良いのかと思った。

夕方、体調が悪い。

昨日の不調がぶり返してくる。

今、思うこと(自分が治癒する環境を最優先しよう)
私は転勤うつを発症していた当時、旭川駅周辺のクリニックでは新規患者の受け入れが難しかったと行った事情もあり、また、医療過疎の地方としては治るにも治せない状況でもあり北海道の首都である札幌まで通院していました。

医療費控除の対象は診察代や薬代が頭に浮かぶと思いますが、クリニックへ通う交通費も含みます。

診察料や薬代でも結構な額でしたが、交通費を乗せるとそれなりの金額でした。

転勤うつになるまでは病気になって、交通費をかけてまで医者に通うという感覚がなかったのですが、地方都市の精神科というのは大変です。

私の話とはそれますが、医療過疎は精神科や心療内科も同じで、駅前にクリニックはありますがどこも患者を抱えきれず、遠回しに新患を断ることもあります。

地方で精神科の看板を掲げ、うつ病をはじめとするメンタルヘルス不調の方が再び職場復帰でき働き続けられるまでの回復、改善を支援するクリニックはそうそうありません。

だから、私は転勤うつを治すために自分が改善する気概で生きることに加えて、改善を支援してくれる(治療してくれる)医療の支援が受けられやすい環境を得る必要がありました。それが私のケースでは、”東京へ戻る”ということでした。

転勤先で転勤うつ、うつ病といった精神疾患になった方はこの病気は一生モノですから”仕事”は一旦、置いておいて自分に最適な療養環境を得ることを優先することをお勧めします。

私の場合は国内の転勤でしたが、このご時世ですので海外転勤といったこともあると思います。ご自身の健康、心の安定を最優先しましょう。

下に紹介した本は北海道、旭川から北にある名寄の先生が書いた本で地域に根付いた先生のレポートです。旭川で療養していた私も頷くことが多かったです。

医療過疎、地方の精神科医療に興味のある方は是非読んでみてください。

 

2月18日(動けない日はじっとしている)

引っ越し準備をしたら眠くて何もできない。

しかも15時近くまで体調が悪く、横になっていた。

2月19日(神経症による嘔吐の症状)

私達夫婦を気にかけてくれているパン屋やスーパーに顔を出したが、やはり思ったより体調が悪く体力の消耗が激しい。

夕方から体調不良になる。夜、肉を食べて吐いてしまった。

2月20日(うつが絶対治る治療法などない)

家の近くのカフェ(Sun蔵人)で知り合った中島さんと旭川の冬まつりの時にお会いしたが、その時に中島さんと撮った写真があったので現像しに行った。

その後、図書館に本を返しに行った。思えばこんなにがむしゃらに人生で本を読んだことがなかった。

病気のことから心理学のことまで色々と読んだ。また、臭いものには蓋という状況だったこともあり、労災申請やメンタルヘルス不調者対応といった本も読み漁った。

目が疲れやすく、長時間の集中ができない時もある私にとって旭川での病床での読書は質が違った。

夕方頃から相当落ち込んだ。

東京で良くなるのか…

ここまでメンタルヘルス不調者の対応に関しての想像力が足りない会社に戻って、自分はどうするつもりなんだろうか…

旭川では毎日が夢のようだった。

夢から覚めずに楽になってしまいたい。

 

少し気を抜くと弱い自分に引き込まれそうになる。

楽になりたい、もう自由になりたいと言ったことが頭の中で囁かれる。


私はしばらく将来を悲観していたが、妻に励ましてもらい夕食を食べ、引っ越しの準備を続けた。

 

今、思うこと(精神疾患の治し方は本には載っていない)

転勤うつで苦しんだ病床ではうつ病の本、適応障害の本、労災申請の本、メンタルヘルス不調に関する本など徹底的に読みました。

それで気づいたことがありました。

うつ病がどうしたら治るかといった明確な答えはどの本にも書かれていません。

太陽の光を浴びましょうとか、抗うつ薬のSSRIの仕組み、うつ病の症状などのことは書いてありますが、これをすれば必ず治るといった明確な解決策はありません。

うつ病をはじめとするメンタルヘルス不調の症状は一人一人、微妙に違います。

一人一人違うから本に書ける共通の答えなどないんです。

 自分で探さないといけないのです。

Twitterに書かれていないし、主治医の先生に聞いても同じ。

でも、答えは自分の中に必ずあります。

だから、必ず自分で答え(解決策)を見つけ出すことはできます。

だから、本を読み漁るということもムダでもありません。

その先に見えてくるものがあります。私はそうでした。

2月22日(愛は人の徳を高める)


7時起床

何の夢を見たか忘れた。

 

夢を見たことは熟睡できたということだろう。

 

その日は、ふと思い立ち旭川駅から氷点橋を渡り見本林の入り口にある三浦綾子記念文学館へ行った。

 

私からすると、『氷点』をはじめとする著名な三浦綾子先生の本よりはご主人の光世先生の書いた本の方が私の心に響いた。

 

色々と光世先生の本の内容に関して伺いたかったのだが、これまで私の体調も悪く、なかなかチャンスがなかった。

 

東京へ転居するまでに三浦綾子文楽館へ行ける日は限られていて、たまたま思い立って向かった。

 

ただ、今日は土曜日である。

三浦光世さんは館長を勤められており、土曜日はあまり文学館にいなかった。

 

先生はいないと分かっていたが、初めて自分が転勤うつになってしまったことを相談したの人にけじめをつけたかったのだろう。

 

案の定、光世先生はいなかったが、『道ありき』の写真集が欲しかったので買う。


受付の女性と少し話をした。

先生と初めてお会いした時の欲のない方だという印象。

 

一言で言い表せないが、光だった。

 

オーラのある人というのは風格だったり、偉い方だったり様々だが、光として見えたのは初めてだったことを話した。

 

親身に私の話に乗っていただいたこと、そして「今はゆっくり休みなさい」と言っていただいたことが救いとなったこと、私は東京へ病を治すために転居することもあり、ご挨拶のつもりで来館したことを話した。

 

受付の女性には、六条教会へ行ってみたらどうかと言われたが、協会には行ったことがない。

 

お祈りはどのくらい時間がかかるのか聞いてみた。2時間ぐらいとのことだった。

 

2時間、教会に居続ける精神的また体力的な自信がない。また夏にお会いできればと思い建物を出て車に乗った。

 

どこに行こうか考えていたその時、車の窓を叩かれる。外を見ると受付の方に「館長が来ました!」と言われた。

 

私は特別驚かなかった。会える気がしたからである。

 

それより、普段は土曜日に文学館には来ない光世先生がなぜ今日、文学館に来たのかと思い先生に聞いたところ「来館しようと正装をして、土曜日だと気づいたので、普段着に着替え直そうと思ったが、正装を着たので文学館へ来た」とのことだった。

 

その時、私は三浦光世先生との出会いは神様のいたずらのようなものであって必然なようなものだと感じた。

 

三浦光世先生と文学館の喫茶コーナーでコーヒーを飲み、30分くらい話をした。

先生とお会いするのは今日で5回目であることを話した。

 

1度目は明日と自分を見失い、うつ病といった精神疾患にどう耐え、自責の念からの脱却を測れば良いのか苦しんでいた時

 

2度目は夏の観光シーズンに見本林を散歩するついでに挨拶に立ち寄ったこと

 

3度目は秋から冬への移り変わりの時期に母といとこを連れて光世先生に挨拶に伺ったこと

 

4度目は新年を迎えて、妻と一緒に挨拶に伺ったこと

 

5度目は今日である。

 

先生の書いた本について質問して感想を述べた。

私は妻に自分が苦しんでいるところを見せたくなかった。

苦しんでいる自分より精神疾患で苦しんでいるところを見る妻(他者)のほうが辛いと考えたからである。

 

だから、自分の苦しみを緩和することをお願いすることは夫婦の間であっても、よほどの絆がなければできることではないと思っていた。

 

三浦綾子さんは口述筆記の全てを光世先生に委ねられるようになって、だんだんと委ねたのだろう。

 

光世先生の「口述筆記は速さ」ということをおっしゃる時の目力が強かった。

 

別れ際、光世先生は私の手元にあった本に一つフレーズを書いてくれた。

 

 

愛は人の徳を高める

 

 

その後、神居古潭を訪れた。神居古潭は9ヶ月ぶりに訪れた。生きることに絶望した私は死に場所を探していた。

ずいぶん寂しい場所。雪の上の足跡は消えない。人が一人通れる道が作られているが所々が橋の端に向かっている。

足跡の痕跡を辿ると、生きることを終わりにしたい、人生を終えたい私のような人間が他にもいるのかもしれないと思った。幸いにもだいたいは躊躇して多くの足跡を残して橋を戻ったようだ。

 

死は時の停止、生の終結ではない。


人は人々の記憶に残り続ける。

 

太く短く、長く細く。それは人の生き様であって、私は太く短くを選んでいるのかもしれない。

 

そう思った時に三浦綾子さんの小説『氷点』で啓示される言葉である「汝の敵を愛せよ」という言葉が頭に浮かんだ。

 

神居古潭の橋の上から見る太陽は強い。澄んだ冬空のもと、太陽の光が強く降り注ぐ。

 

私はやりたいことが、まだある。

 

三浦光世先生や”先生”、佐藤御夫妻そして旭川の地域の方・・・

全ての方々との出会いは偶然ではない。必然の重なりである。

 

橋の上でようやく気がついた。

 

神居古潭を去った後、旭川の療養生活の間、お世話になっているパン屋に昼食を食べに行った。今では住居になっている2階に上げてくれる仲である。


その日は夕方、家に戻った。

一日、調子が良かったつもりであったが、夜中、こめかみが刺されるように痛い。

パキシルCRを50mgから37.5mgに減薬している症状かもしれない。わからない。


今、思うこと(家族のうつに悩む方へ)
私の世代には知らない方も多いかもしれないので三浦綾子文学を紹介したいと思います。

三浦夫妻のことについては三浦綾子記念文学館のwebサイトに載っていますので、紹介します(以下をクリックしてください)。

 www.hyouten.com

光世先生は三浦綾子さんの夫であり、三浦綾子さんの作家活動を口述筆記という形で支えたことが有名です。

*奥さんである三浦綾子さんが口で話すことを夫である光世さんが原稿用紙に書き留める流れで執筆活動は行われました。

 

そんな光世先生も何冊か本を書いています。

様々な病気で苦しみながらも作家活動を続けた三浦綾子さんを支える日々をエッセイにした本が多いです。

 

私が旭川での療養中に読んだのは以下の本です。


うつ病になったのが夫だったりすることもあれば、妻がうつ病になることもある。

うつ病をはじめとする精神不調は厄介な不調で、うつ病がきっかけで家族が崩壊したり、離婚の原因になったりします。

働けないからといった経済的な問題、夫のうつ病で自分もおかしくなりそうといった家族内のストレス、双極性障害(躁うつ病)の上がり下がりについていけずに疲弊してしまったり、症状のひとつである性的逸脱や衝動性に振り回されてこれまた疲弊していまうといったケースなどうつ病家族の数ほど色々とあると思うのですが、夫や妻がうつ病になってしまったといった方がこのブログを読んでいましたらぜひ、下に紹介している本を読んでください。

必ず、何か気づきがあります。 

また、この日は三浦綾子記念文学館に立ち寄った後、神居古潭に行っています。

当時は旭川での療養生活がドラマのような日々だったので、旭川を離れる(治療のために東京へ戻る)前にこのストーリーを終わらせても良いのではないか?といった感情が湧いてきました。

 

ただ、命を粗末にしてしまうといったことはそこまで覚悟を決めておらず、神居古潭という場所に自分が立った時にどのような気持ちを抱くのかを確認しておきたかったのだと思います。

 

神居古潭を冬に訪れる方はこのブログの冒頭に記載したのですが、ほとんどいません。

人の足跡で道ができているような場所です(除雪車は橋まで当然ですが、入りませんので)。

 

その橋の真ん中まで歩いて周りを見渡すと言葉にならないような静寂と川の音。

空は澄んだ冬空で、雲の隙間から太陽が降り注ぐ。

 

歩いてきた道を振り向くと自分の足跡がはっきりと残っている。

 

「ここまで、自分で決めて歩いてきた」

 

歩き続けるか、歩くのをやめるかは自分が決める。

その時、私は歩き続けることを決めました。

 

このドラマのような療養生活の結末を見届けたくなったのかもしれません。

 

自分次第でどのようにも変わる結末を。

 

周りのせいにせず、転勤うつになった原因に復讐せず、囚われず自分を作り直していく。その作り直していく作業を続けることを決意した日でした。