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【適応障害回顧録】8冊目の日記⑥うつ病夫の私は妻を実家に帰らせ、一人。

~妻の体調不良は私の側にいるから・・・と考えた私、そして実家に帰ろうと思った妻。結婚したときには想像していなかった夫婦のかたち。あの頃の普通の毎日をもう一度、たったそれだけ願った日々。~

4月15日(妻に”大丈夫”と言えた日)

今日で、私が自分で自分の命を粗末にしようとしてから約1年経った。

今日が精神疾患になる前の私の命日だ。

妻は気分転換にヨガのレッスンに通い始めた。

私は午前中から図書館にいた。EMDRを受けるか悩んでいたのだ。

EMDRの第一人者の翻訳された著作をがむしゃらに読んだ。

端的に説明すれば、EMDRというのは眼球運動あるいは手のひらのタッピングを一定のリズムで行うことで、無意識を意識化し、いわば催眠をかけフラッシュバックの鍵となっているトラウマ(いわば悪性腫瘍)を心の良性腫瘍にする心理療法である。


一種の認知改善療法のようだが、認知が誤っているのはどういうことだろうか?と自問自答しながらもEMDRを受けてみることにした。

私の臨床、私のケースが他の精神疾患に苦しんでいる方の治療に役立つのならそれで良いだろうと思えたのだ。しかし、EMDRを受けるということは治療といっても、過去のトラウマを再び見つめることになる。だから、踏ん切りがつかずにいた。

午後は家の近くのよく行く喫茶店で勉強をした。妻も心身の不調が出始めていたし、私の現在の状況についてまとめたものがなかったので、主治医や今後、出会う臨床心理士へ説明しやすいようにメモに書いてまとめた。

その後、久しぶりに妻と2人で外で食事をした。

妻が外食したいということは久しぶりだったかもしれない。当初、二人でと考えていたが、私の父と母も私が誘って4人で食事をした。

食事をした後、もしかしたら私になにか伝えたいことがあるのかもしれないと思い、帰りに妻を喫茶店に誘って話を聞いてみた。

妻からはこれから、あまり期限を決めずに実家へ帰ろうかと話があった。

北海道、旭川での闘病生活の頃から妻の体調は常に把握してきたつもりだったが、東京に戻ってきてからは正直、余裕がなかった。結果、こうなってしまった。

もし、私は妻も精神に不調をきたして、精神科に通うといったことになって薬を飲むようなことになったら、唯一、苦しめたくなかった人を結果的に私が苦しめてしまったことになるわけだが、そもそもの原因であるパワハラを行ってきた上司やそれを隠蔽した本社、北海道支社に私は何をするかわからない。

妻は全てを失った私にとって、唯一無二の存在。旭川の凍てつく寒さの中、私から離れたいと一言も言わなかった。そして、夫としてだけではなく、後にも先にもこれ以上の人はいないと思っていた。

妻は実家では早く眠れたし、早く起きれたそうである。つまり、私の病状を案じていることや私の実家に居候し、私の母も弟も父もいるという環境から実家に戻り、ほっとしたと同時に重圧から解放されたということでストレスも噴き出したのだろう。

私は直感的に、このまま妻を私のそばにいさせると「うつ病がうつる、感染する」と思えた。それで、私から妻へ「実家で休養させたい」と伝えた。

妻が言い出しっぺで実家で少し休みたいということにすると、私の両親や妻の両親に変な心配や詮索をされるのでは?と思えたのだ。それで、私が実家にしばらく帰ることを勧め、妻がそれに従ったということにした。

私は妻に、「ひとりで大丈夫だから」と言った時、「大丈夫と言えるようになったね」と言われた。

つい数ヶ月前なら大泣きしていたと思うが、涙は出なかった。

自分でも気づかないうちに、ほんの少しづつだけど、心の傷が縫合されている・・・そう思えた。

4月16日(これまで、常に妻が側にいてくれた)

朝4時中途覚醒、6時起床、7時服薬

両親に妻がしばらく実家に帰ることになったと話をした。両親は理解していて、特に私や妻が小言を言われることもなかった。

私は安心して二度寝してしまった。

1時間ほど二度寝して、昼は家の近くの喫茶店へ向かった。

喫茶店から帰宅すると、驚いたことに私の母が泣いていた。妻が実家に帰るのが寂しいとのことだった。母が泣くのは意外だった。

昼食後、また寝てしまい、13時から15時ぐらいまで寝た。

今日は調子が悪く、何をしてもずっと乗り物酔いしたような感じである。

結局、体調が悪く、家の近くの午前中に行った喫茶店とはまた別の喫茶店に向かった。私にとって、この喫茶店は私が旭川で苦しんでいた頃に時々、通った三浦綾子記念文学館と似ているように思えた。

ドアを開けると別世界が広がる。私にとってここは教会なのかもしれない・・・

旭川での”病人に口なし”の療養生活が思い起こされる。

妻と2人で転勤という本社の命令で初めて移り住んだ北海道の地・・・

旭川での日々は苦渋の判断の日々だったが、孤独だった時、自分のことで精一杯で気が付かなかったが常に妻がそばにいてくれた。私の妻の私への清らかな想いを考えるだけで、目頭が熱くなる。

決意を新たに明日を生きる。

僕が僕を治さないと幸せは再び来ない。あの、ただ平穏な日常は自分が自分の不調を改善することができれば必ず、またやってきてくれる。

4月17日 (過食症や自傷をする人の気持ちがなんとなくわかった気がした日)

昨日、三浦綾子記念文学賞に応募する小説の概略を書き始めた。 

妻を実家に帰らせることにしたのだが、夫にとっては結婚した時にこんなことになる日が来るとは全く想像していなかったら相当なストレスだったようだ。色々なストレスが重なったのか、夕食の際に食べた揚げ物を吐いてしまった。

吐いた時、かつての記憶、脳裏に浮かんだ嫌なものも吐瀉物と一緒に吐き出された気がした。

夕食後、風呂にも入らず寝た。

このところの不定愁訴は昨日、ほとんど何もしなかったことで回復したようだ。

午後は2時位から家の近くの喫茶店で色々と考え事をした。

勤務先から精神疾患を発症した者としてパージされた私は、このところ資格試験を取得しようか考えている。ただ、午前中は何もできなかった。この状態で資格取得はもとより転職活動なんてとてもじゃないができない・・・

4月18日(高齢の方は自分の過去の苦しかった体験を話してくれる。)

この日は池袋の馴染みの美容院で髪を切った。 そのまま新宿へ向かう。

新宿の紀伊國屋書店で精神医療に関する本の並ぶ棚を眺めた。その後、家に帰ってきたがいつの間にか疲労が蓄積されていたようである。

夕方、家の近くの喫茶店へ向かった。

以前、隣り合わせの席だった高齢の女性、小出さんがいらっしゃったので近くの席に座った。小出さんとは色々な話をした。私は幹が太い人らしい。確かに北海道でくたばらなかったから相当、生きる力には自信がある。

小出さんはふと、私に原爆の話をし始めた。小出さんは広島出身で被爆者だった。私の身を案じると、小出さんに限らず、高齢の方は自分の過去の苦しかった体験を話してくれる。この小出さんもそれ相応の苦労をされてきた方なんだなと思えた。こういった経験を話してくれるということは小出さんにとって私は気が許せる人間なのかもしれない。

4月19日(精神疾患になってから初めて、外で居眠りできた日)

21時就寝→23時中途覚醒→1時中途覚醒→7時起床

今日の目標は昼寝をしないことだ。

8時 朝食、服薬。

午前中、図書館へ行き、午後眠くなったので家の近くの喫茶店へ妻と向かった。喫茶店でコーヒーを飲みながら、妻にはだいぶ苦労をかけたなぁと思った。妻が実家で、規則正しく生活できればと思った。

本日は午後、眠気に負けて30分ほど図書館で寝てしまった。

ただ、寝てしまったことを悪いことと捉えるのでななく、回復していると思えたこともある。

不特定多数の人がいる場所で眠ったのは、精神疾患を発症して初めてだつた。緊張感がほぐれてきたのかもしれない。

 明日、妻は実家に戻る。

新しい休職生活が始まる。どうするか、どうなるか、自分次第だ。

諦めたくない。

4月20日(妻、実家に帰る)

朝8時に起きて、また寝た。妻を起こしたつもりが、10時頃、部屋に戻り、ミイラ取りがミイラになるように私も寝てしまった。

昼食を食べ、頭がぼーっとするなか外出する支度をした。

今日、実家に帰る妻につられて自分も支度をした。支度をし終わった後、「そうだ、私は妻と違って外出する予定もないんだ!」と思ったが、支度をしていたので、妻が家を出た後、家の近くの喫茶店へ行った。

いつも妻と2人で行動してきたから、この感覚は結婚する前のような感覚である。なんだか表現が難しいのだが、涙が出てこなかった。

「涙が出てこない」と気が付いた時、自分の感情を少しづつ、抑制できている自分に気がついた。

頼りたくても誰も頼れない・・

振り返ると、転勤先で私はパワハラに遭い、短時間で急性ストレス障害のようなものになり、PTSD、適応障害、うつ状態と様々な診断を受けた。

そのような中、精神疾患を原因として感情のコントロールができず、私の周りにいる人間を傷つけてしまったこともある。

そう思うと辛い。

家の近くの喫茶店に3時間ほどお邪魔した。精神疾患の治療法を調べていてEMDRについて知ったことを文章に書きたいと思った。

18時ごろ、帰宅したら少し疲れていたが、昨日から体が軽い気がする。良くなってきている実感がある。一方、目に症状が出ている気がする。

4月21日(考えすぎることで、妻がストレスになっていた)

24時就寝、8時起床、明け方4時ごろ中途覚醒

最近、中途覚醒が多い。北海道では基本的に24時から朝の7時までの睡眠サイクルだった。睡眠リズムは狂っているが、東京に慣れてきたのかもしれない。

朝パソコンにワードでEMDRに関する資料を打ち込んでみた。若干疲れたが会社に行けないほどでは無いから、回復してきていると思われる。

■主治医診察

その後薬局へ行き、薬を貰う。

帰りに新宿の紀伊国屋本店へ行く。通院帰りで体調が悪くならないか心配だったが、思ったより店の中が見やすい。

通院から帰ってきて寝てしまったが、体調は良いように思える。

私は無意識に妻のことを考えすぎていたのかもしれない。

でも、今は気楽だが、この気楽さを私は求めていない。

妻との2人の生活を背負い続けたいと改めて思った。

妻の祖母はまだ健在で、孫が欲しいと話す時間が増えたようだ。そう思うと申し訳ない気持ちにもなる。

寝る前にパキシルを飲むと痺れが来るから、その前に寝よう。

4月22日(教科書の選定委員になった)

24時就寝→8時起床

リハビリも兼ねて、午前中からお昼までは図書館に行くようにしようと思っているのだが、なんだか学生時代に戻ったような感覚である。

16時から18時まで寝てしまう。どうして眠くなるのか・・・

セパゾンがそんなに必要でなくなってきたのかもしれない。

ベンゾ系の精神安定剤の離脱症状を考えなければ、1日3回までの頓服処方で行ける気がする。次回、先生と相談したい。

夕食を食べて、夜、家の近くの喫茶店へ向かった。

今日も体調が良かったので、体力の向上のために何かやったほうがいいと思った考えた結果、ウォーキングをしよう、歩き続けようと思った。

たまたま区報に載っていた小学校の教科書選定委員の委員の公募に申し込んだところ勤務先が超大企業ということもあってか、すんなり教科書の選定委員になってしまった。

休職中ではあるが、今の自分に何ができるのか、勤務先から臭いものに蓋をされている私が人の役に立つのかを考えながらできる範囲で取り組んでみようと思った。