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【適応障害回顧録】7冊目の日記② うつ病になったあなたの居場所は職場だけではない。


~旭川を脱出するまで残り1ヶ月半となった。転居に向けて勤務先と連絡をせざるを得ないことがあり、人事部のスタッフの抑圧的な態度に失望する。一方で地域には私を見守ってくれている人がいた。勤務先で臭いものに蓋とされた私だが、私の存在を認識してくれている地域の人達がいるということは勤務先というラベルが剥がれたそのままの私も何か人に魅力に感じるものがあったのだろう。~

1月15日(お世話になっているパン屋家族との新年会)

8時起床

午前中、除雪

13時 昼食

夕方、寝てしまう。

16時ぐらいからお世話になっているパン屋の家族と新年会をした。

つかの間の幸せだった。妻も楽しそうだった。

22時 帰宅

23時 就寝

1月16日(人事部の言葉”ご自由にどうぞ”)

23時就寝→8時起床

昨夜、うなされた。どんな夢か覚えていない。

妻がいてくれて助かった。

8時 朝食、服薬

午前中、旭川駅前の書店へ行く。ビジネス雑誌を見るとうつ病の特集がされていた。私だけではない。こういう時代なのだろう。

12時に家の近くのスーパー銭湯へ行き、その後昼食を食べた。

15時頃、本社から来た書類の書き方についてわからなかった部分があった。本社には連絡したくなかったので、妻に担当部署へ電話してい確認してもらった。

妻では私の勤務先の文化や事情がわからず、結局、私が出ることになる。

本社の対応は会社都合な内容だった。結局、どうしてほしいんだ?という話になる。人事部のスタッフからは「あなたのために本社へ戻すことが望ましいと思って、色々とやっているのにそういった主張を言われると、言われた方はどう思うだろうか?」といった話をされる。

最後は売り言葉に買い言葉になる。

最後に本社の人事部のスタッフから出た言葉は「ご自由にどうぞ」との言い方であった。精神障害のため加療中の私に考えられない言葉だった。

「他に言うことはあるかと?」と言われたので、「ご自由にどうぞと言われれば、勝手にやらせてもらう」という話をした。

私の認知能力がうつ病の症状で低下していたので妻にはそばで聞いていてもらった。スピーカフォンで話をしていたので丸聞こえである。

妻には悪いことをしてしまった。しかし、涙とか後悔というのはもう私達にはなく、二人で話したのは「これからどうしようか?」という話だった。

私の体調が悪くなったきっかけは旭川支店の上司からのパワーハラスメントであったことは間違いない。

ただ、それが原因というよりは発症してからの対応に関してあまりうまくやってもらえる感じがずっとしなかったのだ。保健師や産業医と人事部に溝があるかのような感じだったのだ。

本社人事部が黒幕なのではないか?とずっと思っていたのだが本社で採用された幹部候補である。現実を直視できなかったのだが、この時にこれまでの予感は確信に変わった。

私は臭いものに蓋だった。その事実がわかっただけで良かったのかもしれない。

「なぜ、就業規則といったものを色々と調べたりしているんだ?」ということも人事部のスタッフから聞かれた。「休養していて自分の社員として置かれている立場、権利や行動の指針が全くわからない中で妻と2人で親戚もいない北海道の旭川にいる。何も知らずに、どう治せというのだ!」と伝えた。

人事部のスタッフとの電話が終わった後、ものすごい疲労感に襲われ夕方、寝てしまった。

夫の私は寝た後も人事部への対応の精神的な疲れか、そわそわしていたのだが妻は開き直っていた。この苦難で私だけでなく、妻も強くなっている気がする。

夜、精神安定剤を服薬したが強がっても言われたことは言われたことなのでショックだった。早めに床についたが、あまり眠れなかった。

今、思うこと
振り返って日記を読んでみても、会社は「私が東京に戻りたい、私が東京で休んだ方が治る」といったことを待っていた気がする。そもそも、雇用している企業としてどう考えるかということが全く表明されなかった。

会社に行きたくないとかいったホームシックのレベルで考えられていたのかもしれないが、うつ病や適応障害で会社に行けなくなるというのはそういった問題ではない。

私のケースは今から数年前の話であるが、この本社の人事部の対応に関してはいまだに頭にくるし、対応としてはまずいと思う。

私と妻は旭川では地域の人の支えがなければ孤立無援の状態であった。

この頃の私は東京に休職発令のタイミングで戻ると決まっていただけでまだ体は旭川にあった。夫婦二人で首を吊る可能性がないと思っていたのか、うつ病をはじめとする精神疾患で休職している社員への対応はどういった点がリスクなのか、雇用している企業としてどういった点に気をつければいいのかと言った感覚が欠落している。

この頃、私の対応で一悶着あった本社の人事部のスタッフとは復職後、同じフロアになってしまい何度か顔を合わせた。私はなるべく関わらないようにしていた。

廊下ですれ違った時ことも度々あったが、胸ぐらを掴んでぶん殴ろうかと何度も思った。復職した後の私は再発しないかと毎日、気が気ではなかったが今、思うと退職するまで、自制していた私は十分、治っていたのかもしれない。

1月17日(”無理に復職することはない”という父の言葉)

23時就寝→2時中途覚醒→5時中途覚醒→8時起床

8時 朝食、服薬

11時 昼食、服薬

夕方、お世話になっているパン屋へ行き、店内でパンを食べる。パンを食べながら労災申請について、考えるのだった。

その日の夜は本社時代の同期から電話があった。

別の支店に転勤をしていた彼はパワハラを受けたらしく風の噂で私のことを知り、経験者を頼れではないが私へ連絡してきたのだった。

本社の人事部へ相談したところ、「転勤先の支店に居づらくなるけど良いか?」と牽制されたらしい。また、彼の支店は私が転勤している旭川支店と同様、残業代が全く支給されない文化があった。残業代が不払いであることに言及すると「勝手に労働基準監督署へ行っていいよ」と言われたとのことだった。

まったくひどいものである。

その日の夜は父親に電話をした。病気が治っても、本社に戻る気持ちがないかもしれない気がすることを話した。父親も無理に本社に復職することはないと言ってくれた。

今、思うこと
当時は旭川から東京への療養休職が発令されると同時に東京へ戻されるという本社の作ったレールに乗り、妻と私二人とも安堵したところだった。

しかし、当時の日記によれば本社の人事部の対応が相当雑になっている。年末調整、新入社員の受け入れ準備、新卒採用と仕事が多いのもわかるが、おそらく本社としてはこのような形で療養休職に至り、東京へ戻る私が復職するとまで考えなかったんだろう。

当時、声を荒げていた私を黙らせるためには東京へ戻しておけば後は約1年間経って復職できなければ休職期間はなくなり、自然退職である。

私も当時は復職するつもりはなかった。 戻るべき職場なのかよく分からなくなっていたからだ。また、労災申請の準備や民事訴訟の検討といったことを始めようとしていた私からすると東京へ戻るという目の前の目標を成し遂げ、次のステップとしては心身を整え、勤務先にどう立ち向かうかということだったと思う。

今振り返れば、よく一人でそれをしようとする精神力があったと思う。

後には引けない状況で人は”生きたい”という決意のもと、前へ進めるのかもしれない。

もう本社には戻れないということはよく分かっていた。それよりも、まずこの医療過疎の旭川から脱出し、東京で治す環境を探すことを優先したかったのだと思う。

1月18日(あなたが悪いと片付けられた人は何のために生きていくのか?

3時就寝→10時起床

昨日、寝るのが遅く10時に起きた。午前中は頭がぼーっとしていたが、勤務先に荷物を取りに行きたい衝動に駆られた。

12時半頃、お世話になっているパン屋で昼食を食べた。ここに来ると平常心を取り戻せる。歳も近いこのお店の店長に、先日の本社の人事部スタッフとの一連の話をぼやいた。

この人は私にとって兄貴のような人だったのだが「ご自由にどうぞと言われたら自由に過ごしていいんじゃないんですか?」と背中を押してくれた。

午後、家の近くのカフェで栄養学の本を読んだ。

19時 夕食

本社のメンタルヘルス不調者への支援は間違っている。

病気で自分の願いが断ち切るられることになり、あなたが悪いと片付けられた人は何のために生きていくのか?

佐藤御夫妻の奥様の顔が浮かんだ。

太陽はいつも登っている。雨でも曇りでもだ!


今、思うこと

休職中の方にひとつ伝えたい。

勤務先が自分を職場に戻すため、再び働けるようにするために対応してくれているのか?、事を荒立てずに再発率の高いメンタルヘルス不調になった社員を円満的に退職へと導きたいのかどちらなのかを冷静に判断する必要がある。うつ病や適応障害の状況では認知や判断能力が低下しているので信頼できる人の判断を大事にしながら自分で決断できるようになるまで心身の調子を整えることが大事だと思う。