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【適応障害回顧録】7冊目の日記④ うつ病で休職する私は当時の支店長にパワハラを認めさせようと直談判する

~パワハラやセクハラ、マタハラといったハラスメントによって精神疾患を発症した者はパージ(purge、追放)される。休職が発令され、休職者となると休職期間の満了日までに復職できなければ時間切れで、自然退職である。つまり、自分が受けた被害に関してなんの主張もできないまま、誰にも知られずに会社組織から消えることになる。私は自分の受けた被害に関して刑事訴訟や民事訴訟での立証は困難であると認識していた。それでも、私は納得できなかった。私が殺されたのは事実だからだ。私は最後に旭川支店の最高責任者である高田支店長の自供を録音するため旭川支店へ向かう。~


2月1日(旭川拘留最後の月)


あまりの吹雪だ。

朝、玄関の扉を開けると、積雪は50 センチぐらいあった。自宅療養より自宅軟禁のような感じがする。 あまりの積雪に除雪が間に合わないだろう…

お世話になっているパン屋が心配になったので顔を出す。

北海道は主要道路とショッピングセンター以外、個人宅もお店も自分で除雪しなければならない。冬は散歩ができないから、血行を良くするために除雪を手伝った。人力での作業である。スコップで雪かきを1時間程した。

体を動かしたからだろうか、血行が良くなった感覚を覚えた。

パン屋からの帰りはしょっちゅう顔を出している魚屋へ夕飯の材料を買いに行った。普段の1日の過ごし方だが、地域の方との別れの日が近づいてくる。


私を受け入れてくれた人々は、私に何も求めなかった。私も求めなかった。

共に生きるという実体験ができた。

勤め先なんて、私が入っている”集合”に過ぎない。

 

今、思うこと
 うつ病をはじめとするメンタルヘルス不調や精神疾患を発症すると”メンタル不調者”と人事部にパージ(purge、追放)され、自分でも病名でラベルを貼る。すると、自分の存在価値がわからなくなる。

これまで、自分の人生を犠牲に築き上げたポジションはなくなり、会社の態度もコロッと変わり、露骨に「いらない」と言われることもあるだろう。

私も例外ではない。自分の存在は許されないと思っていた。

そんななか、存在していることを認めてくれたのは奇跡の連続で知り合った地域の方々であった。私はこの恩を一生、忘れることはないだろう。

2月2日(終わらない夢)


午前中の調子の良さが裏目に出た。夕方から情緒不安定になってしまった。

気を抜くと、適応障害、うつ病といった精神疾患の症状で苦しんでいる今の状況が夢のよう思える。だから、この夢を終わりにしたくなる。

強烈なフラッシュバックの後、泣き叫んでしまった。

妻の涙で我に返り、自分を貫く覚悟ができる。

夕食後の吐き気は消えたものの、ストレスが出やすい状況である。そろそろ限界が近い。

2月3日(”自分が頑固だから”といって自分の行動を貫こうとするのは君の甘えだ。)


朝起きて、ゴミ出しのために外に出る。

雪は降っていないが、猛烈に寒い。雪かきをするが1日経つと雪は水分を含み、重くなっていた。地面がスケート場のようになり、滑りやすくなっている。

午前中は家の近くのスーパー銭湯に行った。いつものように36度台の低温湯につかりながら考えた。会社員としてのサラリーマン生命をかけ、旭川支店での上司を止められるのは私だけだろう。

13時 昼食、服薬

午後、家の近くのカフェで以前、私を気にかけてくれた地域の方である中島さんに今の自分の心境を相談した。中島さんはいつものように私の目を真っ正面から見て、聞いてくれた。

「重い荷物は旭川において東京へ戻れ。背負うな。10倍、自分が苦しむ。君がパワハラに対して、行動すればするほど、君が苦しむ。旭川支店の上司が改心しなかったことを考えると虚しいだけだ。」

「君は気を配りすぎている。二つ配れば良いところを五つ配ろうとする。それでは気がもたなくなる。”自分が頑固だから”といって自分の行動を貫こうとするのは君の甘えだ。」

「焦って、やけになってはいけないが、じだんだ踏んでも仕方がない。余命3ヶ月の友人も私の年になると出てくる。だが、まだ20代でそんなに人生を悲観するな。」

中島さんとの話は1時間に及んだ。

私は私で言葉を返したかったが、中島さんの言葉はほとんどが的確な人生指導だった。


午後は家に戻り、東京へ戻るため荷物を整理していた。実家に居候することになるから極力、荷物を減らす必要があった。

今日も頭が割れそうである。病的な眼精疲労、耳鳴りがひどい。

今日の夜は首から上にかけての症状がひどい。この身体症状は発症した頃と比べると若干は改善されたが一進一退であり、本当に苦しい。

2月4日(コンプライアンス部門からの回答は私の考えどおりだった。)


午前中、掃除をする。

昼食を済ませ、パソコンを開くと本社のコンプライアンス部門からメールが来ていた。

私が主張したことの一部が認められるということ、そして私の早期回復を願うということがメールには書かれていた。

メールの相手は私が本社で働いていた頃にお世話になったこともあるかつての職場の上司からの書面であった。異動して、コンプライアンス部門で働いていることをその時、初めて知った。

精神疾患を背負って、孤独な立場でも自分の状況を客観的に把握して人事部の言葉や対応が適切なのか考えて本当に良かった。人事部の私への対応がコンプライアンス部門により、一部、是正されたのである。

病床で横になりながら、少し、ほっとしている自分がいた。

2月5日(なぜ、誰も私を助けてくれなかった?)


目を覚めると6時だった。少し眠いが起きた。

今日は私の両親が来る。もう少しで東京に戻る息子夫婦が心配なのだろう。

妻は旭山動物園でアルバイトをしていたこともあり、地域の方と知り合いが出来たようで外出するそうだ。

昼食後、両親を迎えに旭川駅まで行く。帰宅後、2時間ほど寝てしまう。

19時頃、精神的に不安定になる。

夢に自分が抑えていた感情を解放した自分がいた。

なぜ、私を放置したのか?

なぜ、北海道に残すという選択肢があったのか?

北海道支社や本社のパワハラ上司への対応をふまえると不明なところがある。笹島課長も既に知っていたなら何故、私を救ってくれなかったのか?

自分の弱さが夢を見ている間に現れてきて、汗びっしょりで起きた。

当初、薬が切れていた感覚もあり、夢から現実に適応することがうまくできなかった。1時間程度で落ち着いてきた。

普通に食事が取れたが、妻と父は私の調子が悪いところを見てしまい、悲しんでいた。辛いもの見せてしまったと思いながらも早めに寝た。

2月6日(魚屋とパン屋に行けるのもあと何日か。)

お世話になっているパン屋や魚屋に両親と挨拶に行った。

思ったより時間は早く過ぎる。夕食は幸せな時間だった。

 

2月7日(妻にとっては夫の健康)

両親が東京へ帰った。昨日の夕飯の時間は闘病生活で一番幸せだった気がした。

私の健康は妻にとっては夫の健康であり、親にとっては息子の健康である。 

2月9日(中島さんと妻と旭川氷まつり)

午前中、中島さんと会った。

思えば、中島さんとは私だけしか会ったことがなかった。中島さん妻に会いたかったようでとても笑顔だった。

いつもの調子で中島さんは饒舌だった。最初はものすごい圧を感じたご指導も慣れてきたので勉強になる。

酒の飲み方や仕事の職場の人との付き合い方、お金はほどほどにしといた方がいいといったこと、幸せをほどほどに持っておいたほうがいいといった話だった。

中島さんは既に定年退職した身だけども、結構、兄貴肌のところがあるんだろう。昼食は駅の近くで旭川ラーメンを妻と食べた。

旭川でラーメンを食べるのはこれが最後だろう。

2月10日(中島さんとの別れ)

その日は精神症状が出てしまったらしい。旭川から東京に戻りたくなくなってしまった。

転勤する先として北海道が選ばれた時、私はそれなりに希望を持って北海道へ来たわけである。しかし、着任早々、クラッシャー上司からのパワハラにより、当初、描いていた未来予想図は崩れ去った。

そして、今待ち受けてる現実は結婚する時に出た実家へ妻と一緒に身を寄せるということである。

荷造り、荷解きなど色々なことを考えると自分の負担になるというところが感じられた。引っ越しの搬入、搬出の際には私はどこかにいたい・・・

そんな気持ちを抱いたのだった。

その日の夕方、中島さんから連絡があり、”写真ができた”と言われる。何のことだかわからなかったが、取りに行った。中島さんとは旭川の氷まつりの氷像を妻と見たのだが、その時の私達夫婦の写真を額縁に入れて送ってくれた。私にはもったいない恩人だと思った。


2月11日(EAPから転院先が紹介される)
 

23時就寝→1時中途覚醒→6時中途覚醒→8時起床


今、10時だかまだ朝がぼーっとする。今日は車の運転は妻に頼もうと思う。


EAPのカウンセラーから東京へ戻った後に通院する転院先のクリニックの紹介が来ていた。紹介してくれた病院に素直に行くことにした。

2月12日(夢でパワハラ上司と対話している夢を見る)
 

ひどく体調が悪い。

久しぶりに全身症状が出た。ひたすら1日苦しんだ。

夢で上司と対話している夢を見た。まともな量、食事が取れなかった。

2月13日(ストレスで吐いてしまう)
 

午前中、家の近くのスーパー銭湯に行った。

お昼ご飯を外で食べるが気持ち悪くなって吐いてしまった。

ストレスだろう。 

2月14日(自分に罰を与えようと考えると吐いてしまう


朝8時起床

EAPから紹介された東京の転院先の病院に電話した。紹介状が必要なようで、札幌の主治医に書いてもらう必要がある。今日は主治医の診察なので話すことを考えた。

夕食後、吐いてしまうこと、ストレスだと思うが胃がムカムカというのとは違うのだ。自分に罰を与えようと考えると吐いてしまうのだ。

今週は体調悪かったが、主治医の先生も今日は手短な診察だった。

安定剤をうまく使えとのことだった。夕方、旭川駅へ向かう特急列車へ乗った。すこぶる体調が悪い。

最近は午後3時から6時台の体調が悪い。何か負担をかけてしまった時と特に何もせず、負担をかけなかった時で体調が変わらないのが不安である。疲れると体調が悪くなるというものでもない状態だからだ。

その日の夜は疲れが取れない状況の中、東京へ戻るのを不安に思いながら寝た 。

2月15日(減薬症状で感覚器がおかしくなる)


この日の朝食や昼食は体調が崩れるのを予防するため、少しにしておいた。

午後、引越し業者がダンボールを届けに来た。

その日の午後はお世話になっている魚屋とパン屋へ行った。時間は夕方4時を回っていたが、やはり頭や耳が詰まる感覚を覚える。頭、目、耳がおかしくなっている。精神安定剤の減薬というのも一筋縄ではいかないらしい。減薬の参考として有名な”アシュトンマニュアル”を印刷しながら寝た。

19時 夕食

スーパーで刺身を買ってきた。北海道の美味しい魚を食べられるのはあとどのぐらいだろう・・・そう思いながら食べた。

明日は東京へ戻るにあたり、勤務先へ置いてある荷物を取りに向かう。

勤務先を訪れるのはいつくらいぶりだろうか・・・

けじめをつけてくる。


2月16日(高田支店長との”ケジメ”)


北海道を離れるまであと10日ほどとなった。

朝9時に勤務先だった旭川支店に向かい、片付けをした。笹島課長も来てくれて、課長と少し会話をしながら荷物整理をしていた。

荷物整理が終わり、帰ろうかと思った時、高田支店長が来たのだった。高田支店長とは簡単な挨拶を交わしただけで、特に話をしなかった。

荷物の整理が終わって、後は私が自然に旭川支店を去るといった雰囲気になりそうだったので高田支店長に向かって5分、話をしたいと願い出た。

私は高田支店長に開口一番、私にパワハラを行った上司を旭川支店の責任者としてどうするつもりですか?と話した。

支店長は「その事については組織が判断する。私は今も、そしてこれからも私がどう思うかということは何も言わない。」と力のある声で発した。

支店長はものすごい形相だった。だが、私も引き下がらない。

高田支店長は威圧感の奥に部下を守り、自分を守るという管理職独特の顔が見えた。

私は支店長に「もしパワハラ上司の下に新人職員が配属されたら、自殺すると思う。私は社会人一年目ではなく、本社で社会人として勤務し色々な上司の部下として過ごしてきました。そして、共に仕事をしてきましたが、パワハラ上司との旭川支店での関係はたった1か月です。それでも私は潰れたのです。病気のせいかわかりませんが、本当に私は自分で死を受け入れるところでした。彼は人を殺します。」

高田支店長の怒りは私の体調や立場への配慮を通り越し、どんどん抑圧的になってきた。「人を殺すといったね。なぜそう思うんだ?君の印象や君の上司への接し方がそうであって、他の人からすれば良い指導を受けたと思うかもしれないじゃないか。」

「私だけがありません。過去に彼から指導を受けた人は2回、自殺しようとしたと私に告げました。」

「誰が言ったんですか。」

「それはその方の不利益になるから言えません。私も北海道支社の人間であれば言えないでしょう。しかし、本社であろうが北海道支社の人間だろうが私はもう失うものはありません。だからこの場で旭川支店の責任者である支店長、あなたに対応が必要な旨を申し上げているのです。」

「君は自宅療養に入る時にも同じことを言っていたよね。過去を引きずらず、先を見るんだ。」

「私は病気になり、自分の足で立てなくなってから、今日、そしてこれからも労災申請をすることができました。北海道庁で上司から言われたことを弁護士に説明したら、パワーハラスメントであると言われました。私が考えたり、私の主観的な認識という問題じゃないんです。」

「今君は二つのことを議論しているよ。上司からの指導と労災申請って。」

「二つを議論しているのではありません。労災申請はあくまで上司に自分の過ちを気付かせるツールでしかありません。本社も北海道支社も旭川支店も誰もあの上司に改心するよう言わないなら、行政介入を持って自覚して頂くほかありません。」

「労災申請されれば、私か笹島課長が対応するのだけど?」

「お二人だけではありません。全員が聴取されます。出勤記録から何から何まで、提出を求められる。」

「労災申請をしたければしてください。そして、組織として人を育てているのだから人事を通して話をしてください。」

「高田支店長、私にとって今日の荷物整理などどうでも良かったのです。私は今日、支店長と話をしに来た。組織論では逃げられない。私は失礼を覚悟でこの組織での社員生命をかけて申し上げています。休職期間の満了までに復職できなければ、これがこの会社での管理職との最後の話になります。だから、悔いなく申し上げています。キリスト教の言葉で”汝の敵を愛せ”という言葉があります。私はここまでの会話で誤解されるのが当然でしょうが、上司に対する怒りや憎しみはほとんどありません。私はどういう形であれ短期間ですが上司にご指導いただいています。ただ、今の指導のままだと、この会社を去る時に部下や後輩から心から送り出されるということはないと思うのです。上司はこれまで相当の業務量やストレスに耐えてきたと思います。それが職位が上がることによって部下や後輩に自分の哲学を押し付けているのが現状なのです。私は後輩から陰口を言われるような上司であってほしくないのです。私は後輩として心から尊敬され花道を飾るような上司であって欲しいのです。ご指導頂いた身として私はこういう気持ちで旭川を離れることをご理解頂きたかったのです。それで十分です。」

高田支店長からは「私の言葉を理解した。」との発言があった。言葉だけではなく肩のこわばりが消えていた。


高田支店長としては本店から転勤してきて、精神的におかしくなってしまった若手社員に自分が知っている部下が強行的な手段、つまり労災申請で吊るし上げられるということは避けたかったのだろう。ある意味で後輩思いである。

今でも高田支店長が私のパワハラ被害を認識しているかどうかは分からない。おそらく精神的に未熟な人間が精神疾患を発症してしまったというくらいしか思っていないだろう。ただ、その時は私と高田支店長と笹島課長の3人の間に、何かうまく言葉では説明できないが、”未練”という想いを共有できる時間があったのだと思う。つい先程まで緊迫した雰囲気位だったが、3人ともに緊張が溶けて私が旭川支店に着任した頃に戻ったのだった。

高田支店長からは「支店の皆さんに言っておいてほしいことはあるかな?」という話があったが、私は自宅療養中の身でお世話になりましたとは言えません。病気を治して、復職する日が来るのならその後、一人一人に手紙を送りたいと思いますと答えた。

高田支店長から「メールでも良い。君の言葉を待っているよ」と言われた。待っているという言葉を聞いて、これまでの緊張がそして旭川でこうあるべきだという呪縛から解かれた気がした。

私が失礼しますと言った後、私も泣いて高田支店長も泣いた。

本社の同じ部署の年の離れた上司の石田さんが色々とお世話になったのがこの支店長であった。私としては本社でお世話になった石田さんへの恩返しを兼ねて、全力で何も分からないなりになんでもやるつもりだった。それがこの有様で残念でならない。

何度、自分で退職しようと思ったが、新卒入社した会社ということもあり愛着がある会社だったので、自分で退職することはできなかったのだ。

自分を迎えてくれた北海道支社や高田支店長、笹島課長に退職届を出すわけにはいかなかった。

笹島課長には「約1年、ご迷惑をおかけしたと思いますが、本当に悔しいです。本社の社員として色々な機会を頂けたのに、このザマです。本当に申し訳ありません。」と涙を流して詫びた。

笹島課長からは「病気を治せよ。連絡を待っているから。」という言葉があった。

私は涙を押さえながら、旭川支店を後にした。ビジネスライクな”原因”と”結果”といったものではなく、再び戻ることができるかわからない休職者になる身としてけじめをつけたのだった。

これから私はどこに行くんだろうか。東京に戻ったとしても、本社に自分の席はない。

北海道、この旭川の雪原の大地から東京へ場所を移すと考えよう。病気を治し、未来の自分と出会うために。