【適応障害回顧録】8冊目の日記④ 会うことのないはずだった初恋相手との再会
〜東京に戻り、出身地であったはずの大都会の環境に適応できない私は居場所をなくしていた。そんななか、自分の人生で会うこともないと思っていた人に会うことになる。運命のイタズラというのは、ドラマの中の話だけだと思っていたが自分が主人公になるとは思ってもみなかった〜
3月19日 自分の調子を把握しづらい毎日
どうも眠れず、寝るのが遅くなった。
まだ生活リズムが安定しない。
深夜2時半にようやく寝れたものの7時半まで寝て、その後、二度寝してしまった。起床後は図書館へ行ったものの疲れてしまい、帰宅してがっつり寝てしまった。
3月20日 やらかした産業医面談
7時半に起きる。
今日は産業医面談だったが、面談の時間を間違えてしまった。11時半ではなく11時からだったのだった。
本社へ向かうタクシーの中で保健師から電話が来たが、私は保健師が間違えたのだと思った。妻は私が時間を間違えていたことを分かっていた様子だった。私を刺激しないように言わなかったのだろう・・・
<産業医面談>
産業医面談は特に復帰の話もせず、医者と患者のような普通の診察であった。産業医面談の時間を間違えてしまったのが致命的だったが、良い印象は受け答えで出せたと思える。
復職には”二つの合格”が必要になる。
一つ目は産業医による就労可能判断。
二つ目は人事部(いわば、本社)の雇い主として仕事ができるという判断である。
手ごわいのは産業医の合格だ。産業医面談というのは精神疾患を発症した休職者にとって、小テストのようなものである。定期的に自分の状態を示す必要がある。それも、良くなっているというイメージを持ってもらわなければ私は本社に復帰することはできず、人知れず消えることになる・・・
産業医面談を終え、12時半に帰宅して昼食を食べた。産業医面談で疲れたのか、眠たかったが警察署へ車庫証明を取りに行った。旭川からの転居となると自分の居場所も変わるし、車の場所も変わる。色々と手続きが厄介だ。
滅多に訪れない警察署は閉鎖的な雰囲気であった。警官でメンタルヘルス不調になる人がいるのもなんとなく理解できたのだった。
帰宅後、夕食前にがっつり寝てしまった。夕食は家族と一緒に食べる気にならず、私だけ時間をずらして食べることにした。
この日はパキシルを飲む時間が遅く、22時頃服薬した。産業医面談もあったためか服薬してから1時間後の23時頃から眠るまで減薬症状が出た気がする。全身の痺れが中程度あり、頭の中がぐぁんぐぁんしている。明らかにおかしいが耐えるしかない・・・
なかったこと、いなかった人にされかけた私を包んでくれた旭川の景観が脳裏に浮かんだ。
「私は諦めない、必ず戻る」
そう念じながら意識がなくなる、つまり、寝るのをただ待った。
3月21日 言葉少なき1日
朝7時起床 朝食、服薬
食事を取った後、二度寝してしまう。
9時に起きると頭がはっきりしていたので生活記録表と日記を書いた。
3月22日 うつ病といった精神疾患になると、ものすごく体力の消耗が激しい
1時就寝、4時起床
4時頃、中途覚醒で少し目が覚める。
5時から8時まで寝る。8時に起き、朝食・服薬。しかし、今日はとてつもなく眠いので9時から12時まで二度寝をしてしまった。再び午後1時から4時まで寝てしまう。
ようやく眠気が覚めて、夕方、家の近くの喫茶店に行く。
19時 夕食
家の外を少し散歩したくなる。体を疲れさせないと多分、寝れないだろう。おそらく、旭川の方が同じ負荷でも回復するのが早い。もしくは常に防衛本能が働いていたので、緊張が少し溶けて、疲労感を感じやすいのかもしれない。
体力を高めなければいけない・・・
どうやって体力を高めれば良いだろう・・・
マラソンといったものはできない。
プールで泳ぐとか、水中歩行とかその辺りだろうか。
3月23日 体力をつけるため、歩く
朝9時起床 午前中、妻と散歩をした。お昼頃、最寄りの駅まで歩く。家まで帰る途中、喫茶店で妻と昼食をとった。
3月24日 集中力は4時間以上持たない・・・
朝8時起床 朝食、服薬
朝食を取った後、10時位から午後1時ぐらいまで寝てしまう。
易疲労があり、今日は寝る時間を早めよう。23時ぐらいには寝たい。
午後、図書館へ行く。
15時ぐらいから耳鳴りがしてくる。17時半にまた耳鳴りがする。
月曜から金曜日は職場へ戻ることをイメージして、なるべく同じ負担をかけようと思うのだが、4時間くらいで集中力がなくなってしまう・・・
まだ3時間ぐらい集中力が足りない。疲れて寝てしまう・・・
3月25日 主治医診察の日、親切な人
8時起床 11時半位から診察
診察
主治医「どうですか?」
私 「生活リズムがまだ整えられない。よって、不調が出やすい。」
主治医「図書館はまだ無理して行かなくていいわ。まずは規則正しい生活を送りましょう。」
私 「自分でも自覚している。旭川にいた時の方が一日のリズムが組み立てやすかった。旭川は北緯四十二度だから日の出が六時、日没が十二月には十六時前であり、地域そのものが規則正しかった。」
主治医「あと、寝る前に喫茶店は行かない方がいいんじゃない?夕飯前にしたら?」
私 「実家から歩いて三分のところにある個人開業の店だからガヤガヤしないし、コーヒー飲んでいるわけでもない。家でもの書きや本を読むことが集中できないので時間問わず、よく行く。幸い、店主ご夫妻も私の病気を理解してくれている。でも、先生のおっしゃる通りだ。夕食後は入浴して眠る準備を整えることにしたい。」
主治医「漢方薬は効いている感じする?」
私 「うまく言葉にできないが、効いている感じがする。元々の漢方薬の作用によるが血行が良くなった気がする。体温が三十五度八分くらいであったのが、現在の平熱は三十六度ちょうどくらいである。三十六度五分までなんとか、高めたい。」
主治医「わかったわ。では次回も一週間後に来てください。」
私 「承知した。」
主治医「でも、十四日(金)は昼間寝て、持ち直したからいいんじゃない?生活リズムが崩れたわけでもないしね。」
私 「やっぱり、まだ、東京に慣れないのか疲れると寝てしまう。例えば、十五日(土)は午後、図書館に行ったが、帰ってきて二時間位寝た。症状が出ないように予防的にしているけども旭川にいた時は日中、二時間も寝なかったので。」
主治医「まぁ、慣れるのに慌てなくていいわよ、ゆっくり行きましょう。毎日、同じ負荷をかけるのが理想的ね。」
私 「承知した。」
処方
毎食後
セパソン1mg、トランコロン7.5mg、ビオフェルミン錠剤
桂枝加芍薬湯、四物湯
夕食後
パキシルCR37.5mg
次回診察 四月一日 十一時半
主治医のクリニックは予約がいっぱいで、新患の受け入れが難しいようだ。心身症といった類の患者の増加、それは自分の体、つまり脳を薬で何とかしようという現代の対処療法的な受診なのかもしれない・・・
どんなに忙しくても健康であることこそ、最も大事なことであると思えた。それに気がつかないで働き続けていることが患者が多く押し寄せてしまっている根本的な原因であるのかもしれない。
この社会、すこしどうかしている気がしている。
診察の後、帰り道はフラフラだった。ふらふらである原因は睡眠時間が短かったことだと思えた。主治医の診察からの帰りは電車に乗るのが辛く、タクシーに乗った。
タクシーの中で、携帯電話を見つけた。運転手に携帯電話が落ちていることを話したが、とても面倒くさそうだったので、どうしたものかと考えた。
交番に届けようと思ったが、同じ番号から何件も着信履歴があったのでそこに電話をしてみた。携帯電話の持ち主はどうやら大阪から東京へコンサートを見に来ていたらしい。
どうしようか悩んだが、宿泊先のホテルが近かったのでホテルのフロントに届けることにした。相当疲れていたから、ここまでしなくても良いとかとは思ったが、私が逆の立場で電話を落としたら不安で仕方ないと思う。それで届けてあげることにした。
19時 夕食、入浴、服薬
20時に強烈な眠気が来て、そのまま寝てしまった。
3月26日 ”初恋の人”からかけられた言葉
朝6時に目が覚める。ストレッチをして、6時半に起きる。
昨日、主治医に言われたように6時半に起き22時に床につくということをしばらくやって、1日のリズムを戻すことにしたい。
朝7時 朝食、服薬
9時から11時まで2時間ほど寝てしまった。
12時 服薬
午後は家の近くの喫茶店へ行き、1時間ほど読書。
19時 夕食
23時 突然、”初恋の人”からメールが来る。仕事帰りで疲れているが、会うかということだった。今日会わないと二度と会うことはない気がした。
だから、会うことにした。中学の同級生だから、住んでいる場所(生活圏)は同じだ。
日付が変わった12時、前に会ったのは5年前だろうか・・・
”初恋の人”らしい破天荒な話を聞いた。最近まで五十歳と付き合っていたとか、明治記念館のレストランで働いているとか。この”初恋の人”は朝、登校時間に中学に来れた日はほとんどない。彼女が生活委員になってしまって、朝、全校生徒の登校時に校門の前に立ってといったことをしなければならなくなり、自分も決して朝、得意ではないタイプなのに心配だから生活委員になったりした。懐かしい。
あの頃と比べると、立派になったと思った。
彼女は落ち着きたがっていた。落ち着く男性が私だったらしい。付き合っていないのだが、よく覚えててくれたと笑った。
彼女からは仕事の話を聞かれた。私は今、本来、東京にいるはずがないんだとここ1年の一連のことを話した。
彼女からは無理をするなと言われた。今の私も彼女から見ると無理をしているのだろうか・・・
彼女はバセドウ病になったらしい。バゼドウ病も自分で体調のコントロールができず、相当、辛かったようだ。今は投薬治療で緩和されているとのことだった。
私は幼い頃、川崎病を患った妻にもう辛い思いをさせたくないと誓い結婚をした。そんな私も今、不退転の決意で生きているのだが、妻に想像以上の苦労をさせてしまっている。
しかし、私は勤務する超大企業相手に刀を抜いた。もう帰る場所も、順風満帆の未来もない。しばらく、刀を切り続けることになるだろう。
3月27日 佐藤室長と何回目かの再会
2時就寝 7時起床 朝食、服薬
午前中、家の近くのカフェに行く 。
先日、携帯電話を落とした方から電話を頂いた 。
カフェから家に戻ると妻がまだ起きていなかったので、隣で横になっているとお昼過ぎまで寝てしまった。
*今、この日記をnoteに書いていて気づいたが真夜中に旦那が友人と会うと行って、3時位まで帰ってこなかったのである。なにかあったかというと、ラブロマンスなことが起こるような人間でもないので健全に解散した。ただ、妻からすれば北海道での謹慎中に幾度となく自傷行為をしかねなかった私が真夜中に家を出たのだから心配で寝れなかったんだろう。
13時 昼食
14時から資格試験の勉強をする。
夕方、品川で佐藤室長と会うために家を出た。佐藤室長に会うのも何回目だろうか。
北海道にいた頃に知り合った経営者の方から電話がかかってきた。北海道の余市の農園に来いと言われた。いいところに勤めて、いい給料をもらっているのは分かるが生き方を変えろと言われた。
18時 品川に到着
佐藤室長と夕食をとりながら、何気ない言葉を交わす。理想の上司を尋ねられたら、具体的には佐藤室長のような人と言うだろう。
佐藤室長には「俺も自分のやりたいことがよく分からないんだよね」と言われた。年齢や役職といったもの関係なしにそれぞれ思うところはあるのだろう。
帰りにまた6月くらいにでも会おうと言ってくださった。
3月29日 うつ病の症状でパソコンが長時間使えない
午前中、TSUTAYAに行ってみるが何も借りる気にならない。
お昼頃、家に帰宅し昼食を食べる。眠くなり寝てしまう。
14時から昼寝をしてしまった。昼の薬を飲み忘れたことに気づくが、まあ良いと思った。
夕方、家の近くの喫茶店に行く。
文章を書いているが、パソコンで文字を打つと目が疲れてしまうのですべて手書きで書いている。もう少しすれば、パソコンで文字を打てるようになるだろう。なるべく早くパソコンでの打ち込みができるようになりたい。どうあがいても、職場復帰した後に長時間、パソコンを使うことになる。
3月30日 何気ない一日
8時起床 朝食、服薬
今日は雨がすごい。
13時 昼食、服薬
夕方、家の近くの喫茶店に行く
20時 夕食、服薬
3月31日 「評価されたい」と承認を求める職場での生き方はやめる。自分のキャリアは自分で切り開くということを誓った日
1時就寝 5時中途覚醒、8時起床
5時から7時ぐらいまで、なぜか座って寝ていた。
一度起きるが、うたた寝してしまう。
9時 朝食、服薬
12時 昼食、服薬
昼食後、昼寝をしてしまう。15時から部屋の片付けをしてみるが、片付けという単語が何か記憶のキーになっている(フラッシュバックのきっかけになっている)のか少し感情的になってしまう。
夕方、気持ちを落ち着かせようと近くの公園に行く。
21時 TSUTAYAに借りたDVDを返却に行く。ちょうど桜が咲いていたので、妻と弟と3人で出かけた。家の近くの通り道だが、夜桜を見る。昨年の今頃は北海道にいて、雪景色であったから桜を見るのは2年ぶりであった。
帰ってきたら、私は焦燥感に駆られていた。今日は2回ほど、精神不調になる予兆があった。夜、出歩かない方が良かった・・・
1度目の予兆は午後、片付けをした時に片付けという言葉に何が原因だか見当もつかないが反応してしまったことだ。
2度目の予兆は夕方、弟と家の近くの喫茶店に入ったのだが、私ばかり喋っていた)。躁の症状である多弁だったのだと思われる。
私は割れた卵だ。割れた卵はパックから取り除かれる。そして、代わりの卵が入る。そして、何事もなかったかのように過ぎ去っていく。
「評価されたい」と承認を求める職場での生き方はやめよう。
私のキャリアは私が決める。