揺らぐ衣服、揺らぐ自己
"ファッションの系統が定まらない人は、自己のアイデンティティが確立していない"
どこかで聞いたその言葉は、自分の中にすとんと落ちてくるものだった。
私は、衣服を見に纏うことが好き。
古着が好き。モード系のお洋服も好き。スカートが好き。でもズボンも楽。ダボダボしたものを着ることもあれば、ときどき大人っぽい服が着たくなる。カラフルな色を使う日もあれば、全身黒の日もある。アイドルが好きだから、彼女たちが着ているようなフリルやリボンであしらわれた服も好き。若いうちにゴスロリとか来てみたい。
ファッションと自己表現の関係性についての研究をしている同期がいて、彼女の研究発表を聞くたびに思う。
自分が、ないよ
ゼミ生とか、サークルの部員たちを見ると、みんなが「自分のファッション」というものを確立している。そしてちゃんと揺るぎない「自己」を持っている。私にはそれが、本当に羨ましい。
私には、自分が、ないよ
空っぽの感覚。
自分というものは、いつだって普遍で確信的で、揺るぎないものであってほしい。帰り着く場所であってほしい。のに、それが空っぽ。
さいきん「自己」と「他者」についてずっとぐるぐるしていた、その延長で考えた。
「自己」って、どこにある?私は、どこにいる?
「私」の存在すら疑う毎日
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こんなしょうもない悩み、誰にも話すもんか!と思っていた。
だけど、話せる人ができた。
「それはもう、『変容する自己』ってことで良いんじゃないの?」
ゼミの同期はするりと、そう言った。
「面白い問いだなぁ」
大好きな教授が、にこやかにそう言ってくれた。
「わかるなぁ」「おもしろい、もっと話したい」
敬愛する先輩方が、そう言ってくれた。
自分に自信なんかないし、こんな捻くれた内側なんて誰にも見せるか!と思っていた。けど、教授やゼミ仲間はそれを受け入れて、一歩先の視点から助言をくれたりする。
なんでだろう。どうしてこんなに、居心地が良いのか
それはもう、「社会学」という学問の性質ゆえなのではないか。
自己は揺るぎないものであるべき
すべてを包摂する世界をつくるべき
学校には行くべき
他者のことを信じるべき
べき、べき、べき、べき
がちがちに固まった規範を解体することを、良しとしてくれる。
自分の問題意識や研究対象ですら、疑って、脱構築する。
自分の存在や、世界というものにすら確信が持てないような捻くれた私を、社会学という学問は許してくれる。
だからこのゼミが、社会学を学んでいる人が、好きなのかも。
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ゼミに入って半年。ほんとにこのゼミが好きだな〜と思った書き殴り。
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