ただの自分を愛すること
私たちは学校教育の中で、
「一位になること、抜きん出ること、比べること」が、偉いと教わります。そして嫌なことからは、逃げないこと。辛いことも、周りに合わせて頑張る!という、努力にも似た「ストレス=偉い」を教わります。更には、学力や、運動能力において「自分に足りないもの」を見せられ、未熟さに気づき、少しでも高評価を手に入れることが不可欠だと教わります。「優等生=人気」の図は、そうやってできたのでしょう?
この学校教育には、何か意味があるのでしょうか。それら「実力」が幸せになるために必要だからでしょうか。、
ならば、全ての科目で一位だった人は、幸せになれたのでしょうか?成績が悪かったあの子は、不幸になってしまったのでしょうか?足が速くないと?頭が良くないと?人間には価値がなくなるのでしょうか?
そんなことはありません。
実際、学年トップの優等生が有名大学に進学し、美人の恋人をゲットしたとしても。フラれたらショックで引きこもるなんてパターンだってあります。更に、そのショックで退学して「人生終了」なんて、数十年と、うつ病を患う方もいるでしょう。そうとなれば「実力」と「幸せ」は無関係です。はたまた、社会に出て、会社の中で売り上げ成績「一位」だとしても、裏側ではストレスの限界で過労死する人もいますよね。
つまり、実力があって、一位になって、お金持ちになって、有名人になって、どんな名声を手に入れても。自分が「ただの自分」を愛せないままでは「不幸」なのです。自分は「頑張らないと価値がない」と自らを決めつけてしまったからですね。学校教育の闇でしょう。
そうして、「自らの未熟」を怖がり、頑張り続けるからどんどん苦しくなる。「条件付き」でないと自分を愛せないなんて。そんな辛いことはありません。「実力=人気」は、悪循環そのもの。自分への「評価」を周りに求めるひとは
自分はもう既に「幸せ」だと気づかないから、
一生不幸なのです。
よく考えてみれば。人間、全員が未熟。
大したことありませんよ。私は、毎日失敗しています。何でも完璧にこなせる人はいません。誰でも失敗と、未熟さを繰り返して、成長します。そんな「弱さ」という可愛らしさが、人と人の「間」を繋ぐ。だから「人間」なのです。
そうして神様は生物学的な「ヒト」ではなく、「人間」を作り出す時、しっかりと恵みを与えてくれました。それがひとつひとつの「個性」と呼ばれるものでしょう。
ですから私たちに必要な生き方は、
「自分に足りないものを探して、手に入れること」ではなく、「自分が持って生まれたものに感謝して、既に恵まれていると気づくこと。」
そして、「その恵まれたエネルギーを、高めて、まわりへ提供すること」です。
神様から恵まれたもの。持って生まれた「才」は皆んな違い、それぞれに生きる場所があり、自分の魂を活かす瞬間があるのです。
それは、周りと同じじゃなくていい。
普通じゃなくていい。
自分を愛していいし、
自分を許していい。
自分の個性を信じて大丈夫なのです。
するとやはり、生きることは、比べること、蔑むこと、争うこと、蹴落とすこと、抜きん出ることが目的ではありませんね。「優秀になりたい」と考えれば考えるほど、「自分の魂」は本来の目的を見失い「実力」を作り出そうとしますから、「人気」を求め、孤独になるのはもうやめた方がいい。
私は思うんです。人間の本来の目的は、「相手に喜んでもらうこと」だと。
私たちはひとりひとり、神様の創造で誰かの役に立つように生まれ。誰かの役に立つことを喜びます。そうして、支え合いながら、生きているのでしょう?未熟だからこそ、孤独じゃなくなるのですよ。
私はそう思うようになって。「喜ばれること」をベースに。この世に生まれた「魂の目的」を探しています。
私は誰のために、何ができる?
自分が幸せになるために、魂をどう使うか。
「謙虚さ」とは、自分がどう生きるかを、自分に課していくことでしょう。
競い合い、一位になること。
「じゃないところ」で考えたらいい。あなたはもう、幸せ。私はもう、幸せ。私たち、どう生きようか?どう生きようか。
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