見出し画像

ママの心と、躾の本質




私には5歳の息子がいる。
名前はレイ。

レイは、生まれつき超小食で、殆どのご飯を残すんだ。赤ん坊の時も、ミルクを飲み切ったことは一度もない。5歳になった今も食事の時間は喋ってばかりで、自分で箸を持とうともしない。食事の時間は面倒だと思っているように見えて、私は腹が立つ。チマチマ食べては、トイレに行ったり、おもちゃを持ってきたり、椅子の上で歌って踊ったりする。そんな食事に対してやる気のない息子を見て、母は幾度となく叱ってきた。「ちゃんと座って食べなさい。」

ついこないだは親戚のおばちゃんに「〇〇ちゃんは、おかわりもしてるよ。みんなが遊んでいても、集中して食べている。教育が完成してるよ。」と。親戚の中で「ちゃんとご飯を食べられる子はエライ」を教わってきた。
すると私の胸は痛んだ。レイがご飯を食べないことが苦しいのか?いや、息子が食べないことよりも、自分は「できる母親」を守りたかった。そんな気がした。

また、別の時。
レイはいつも、部屋を散らかしたままだ。片付けが出来ない。出したら出しっぱなし。飲んだら飲みっぱなし。食べたら食べっぱなし。脱いだら脱ぎっぱなしだ。そうしては私、幾度となく「片付けて!」と叱ってきた。「ペンは、筆箱に閉まって?ぬいだ洋服は、洗濯機にいれてきて?食べたお菓子のゴミは、ゴミ箱に捨ててきて?」と、追撃した。
その度、胸が痛んだ。
これもまた、レイが「片付けを出来ない」ことよりも、私に問題があるように思えた。私はとにかく、片付いていない家が苦手なんだ。だから彼には、「片付けられない大人」になってほしくない。ただ、それだけのエゴだった。


靴を、揃えられない息子。
「半分こ」ができない息子。
トイレのドアを閉めない息子。
おもちゃを貸せない、息子。
負けたら、キレる息子。
ルールを破る、息子。

そんな、自分の息子を見るたびに、胸が痛んだ。どこか、私の胸はぐちゃぐちゃに変形して。焦りからくる汚い何かが、私の体を駆け巡り、細胞を通して息子への小言となった。私は、息子が世間に愛されないと、「苦しい」と思った。そしてそんな身勝手な姿勢で、息子の個性を潰そうとしたんだ。


ほんとうの、目の前にいる息子はいつの間にか
「ありがとう」が言えるようになった。
「ごめんね」が言えるようになった。
ひとりでトイレに行けるようになった。
ひとりで着替えができるようになった。
私がものを落として、大きな物音がすると「大丈夫?」と言ってくれる。そんな優しさがある。

私は、結局。そんな素敵な息子をさておき。「周りにどう見られるか。」というところで育児をしていて、こんなにも成長してきた息子の過去を無かったものとして。息子を信じられていないのだ。焦っている。世間にどう思われるのかが怖いだけだった。

こんな心情から抜け出したくて、一冊の本を読んだ。その著書の中で、ある臨床心理士が言っていたんだ。

“親に言われて靴を揃える子供が、何を覚えると思いますか?そして、何を失うと思いますか?





覚えるのは、
「やりたくないことを、やらなければいけない」ということ。

失うのは
「やりたくないことを、拒否する力」です。”





これには衝撃だった。こうして、何でもかんでも「良い子」に育った日本人こそ、noと言える力が無い。躾を厳しく守り、行きたくない仕事にも行った、できる筈ない仕事量も「やります。」と言って、誰かの代わりにやりたくないことばかりして、鬱病になるのだろう。
こんな
優秀であったり、優しい人間になったり、評価を気にして、周りにどう思われるか。という育児への焦りこそ、子供に伝染するだろう。どんどん苦しくなる。息子は自分を信じられなくなる。これを打破する突破口。育児の光は結局、どんな我が子でも、焦らず信じて、愛を持って接することでしかないのだろう。この困難な時代で、どんな未来が待っているかはわからない。それでも息子が自分の足で、歩いて行く強ささえあればいいんだ。自分の味方はいつでも、「自分」だと忘れないで。


「いつか、できるようになる。」

親離れなんて、教えなくてもできるようになる。必要なのは、子離れなのかもしれないな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?