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「愛」と呼べるのは


きたろうへ

しらない人だけど安心して。おてがみだよ。また、“鬼太郎茶屋”にきてね。アニメでもかっこいいよ。

レイくんより


こちらは5歳の息子、レイが明日、「ゲゲゲの鬼太郎」にプレゼントするお手紙の内容でした。
彼が、ワクワクしながらお手紙を描く様子を隣で拝見していた母は、この内容が架空の存在である「ゲゲゲの鬼太郎」に届かずとも。コレを読む多くの大人達に響くんじゃないかと感じたのです。それは私が親だから。とか、著者が息子だから。とか、そういうわけではない気がして。何故この手紙にはこんなにも愛が満ちているのか暫く考えました。

そもそも、ボキャブラリーが少ない息子。彼によってひとまず書かれたのは、①相手を怖がらせないように思いやる配慮。 ②次回の再会を願う愛の気持ち。③鬼太郎をリスペクトしている。と、そんなところです。
ですがその他にも確実に、心を動かすパワーが込められている。その正体は何でしょう。レイの手紙には一体何が込められていて、あるいは、何が込められていないのか考えました。


ひとつ。
やはり、彼の言葉は澄み切っていて、まるで不純物は濾過(ろか)されているようだなと感じたのですね。ここでいう「不純物」とは、「自分を守りたい気持ち」。大人になるにつれて現れる「相手にどう思われるんだろう」というアレです。イコールして、自己愛の欠如とも言うのでしょう。

「こうしたほうが愛されるだろう」「こう言っておいた方が評価される」「こんなこと言ったら嫌われるかも」そんな自己愛の欠如。

自分の存在や、立場を守りたい基準で物事が進むからこそ、自分の意思には沢山の「不純物」が付着するのですね。そしてそこから発せられる言葉は濁っていったり、霞んでいったり、エネルギーが相手に届かなくなっていくわけです。
本当は「だるいな」と思う友達と会ってランチをした後の「今日はありがとう。また会おうね。」とか。怪しい商品を押し売りしてくる、怪しいオバさんとかの言葉が響かないのは(偏見ですけど)良い例ですね。

たとえば、そうして関係を保つのが社会や、ビジネスなのかもしれませんが。ビジネスじゃないところの、交友関係や恋愛、家族間でも大人は不純物だらけではないでしょうか。

それなら、
「不純物は思いやり」と答える方もいるかもしれません。「不純物なんて言うな」と、お怒りの意見も正しいかもしれません。

というのも、私自身が「不純物こそ、思いやり」で生きてきた人間だからですよ。自分の意思を濁してでも、言葉をオブラートに包み、自分を良い人間に仕立て上げ生きてきたひとりだからです。嫌われたくないし、周りの人には好かれていた方が得だ!って思い続けてきた張本人。その裏返しは結局、「自分を守りたい」だったわけですね。「不純物こそ、思いやり」なんつって、罪悪感や、後悔を負いたくない。それも含めでしたね。

つまり、偉そうにするのはまだ早い。
私にとって「自分を守りたい気持ち」というのは、捨てるべき人生の課題なのだと。
いつか自分の言葉にある不純物を拭ってでも、相手のことを思って言葉を投げられた時、本当の意味で「愛」だと言えるのでしょう。

と、子供のお手紙からだいぶ話が逸れましたが。私も息子のお手紙を見習って、「誰にどう思われてもいい」と。純度の高い言葉をここで投げることにします。嫌われても投げる。怒られても投げる。返ってこなくても投げる。そして気持ちが返ってきた時だけ「愛」と呼ぼう。

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