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memo1〜3



1.
寝ている間さえも痛みを感じているような、とてつもない夜が私にはあった。朝になると汗や涙で枕が濡れていて、自分の泣き声で目が覚めた。隣で眠る物体には何も感じなかった。朝が来てしまったことや、今日が始まるということの事実を受け入れ絶望することから始めた。そんな過去には戻れないし、戻らなくていいと思えるようになった。

色々なものとサヨナラをして私はようやく大人になった。今思えば、人に必要なのは「別れ」なのかもしれない。別れることや、離れることや、終わりにすることの方がよっぽど痛みを伴う。痛みのあることほど、意味のあることなのだろう。




2.
許せなくてもいい。その代わりに感謝するといい。そうして怒りはそのままにしないほうがいい。諦めたり仰いだり泳がしたりしてもいいから、何も感じなくなるまで冷ましたほうがいい。それはなぜかって。後から気づく感謝や過ちも大いにあるからだ。正しくなくていい。強くなくていい。優しい方がいい。


3.
私の両親は一日に4回、「お茶をする」生き物ものだった。1度目は朝食と共に。2度目は10時のおやつに。3度目は15時のおやつ。4度目は夕飯の後だった。決まって「お茶をする」そのお茶はいつも日東紅茶の黄色いパッケージだった。
私はというと、苦くて熱くて紅茶が苦手だったし、彼らがそれを飲み終わるまでは「大人の時間だ」と言うので、野暮ったく退屈だった。彼らは今もよく仲良く「お茶をする」。黙ったり、喋ったりしながら。



大人になり、私はアイスコーヒーを飲めるようになって。好んで頼むようになった今こそ思う。アイスコーヒーを挟み、誰かと顔を合わせる時というのは、どんなに暑い夏でも氷でキンキンに冷たいコーヒーを一気飲みする奴はいない。会話の流れが静かになったり、別の話題に移ったり、すこし息継ぎをするかのようなタイミングでチマチマ流し込むものなんだ。そうして終わりの時間が近づくと共に、氷が溶けて薄くなっていくのがアイスコーヒー。汗をかいたグラスを誤魔化すように持ち上げ、ぬるくなったアイスコーヒーをストローで飲み干すのが大人。そこで、ズズッと少し音が立つ。それが「じゃあそろそろ...」の合図。そんな
大人とお茶の仕組みを知ったんだ。

あの頃、野暮ったくてつまらないように見えた「お茶をする」「大人の時間」。幼い私にはお茶なんかよりも、面白いものがたくさん見えた。けど、今ならわかる。そこにしかない大人の時間。狭くなった視野。
私は野暮ったい大人になった。



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