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ぼぅっとしてちゃ、ダメなんだ。



たとえば、大地震の予兆を感じて犬や、猫や、鳥なんかがその日、その時だけ普段と違う素振りを見せていた。なんてことはよく聞くよね。それは「本能」のような「勘が鋭い」などのイメージがあると思うのだけど。私はそれが、少し違うと思うんだ。

動物たちの勘が鋭いのではなく、人間側がただただ衰えてしまっただけではないか?


というのもあの、
「虫の知らせ」や「第六感」などという言葉は、まだこの社会にも残っているように。本来、人間にも微々たる変化が感じられるものだろうと私は思うんだよ。大昔、私たちにはスマホもなければ、GPSもなかったしね。

たとえば戦時中なんか、父親が戦地で亡くなるときには母親や、子供らにだけはなんらかのメッセージが届いたかもしれないし。漁に出た漁師さんに危険が及んだ時、奥さんは咄嗟にパートナーの命を守る行動が出来たのかもしれないよ。そういうこと、無難だけど私が幼なかった頃にもあったんだ。話は逸れるけどね.

幼い頃、私のおじいちゃんが夢に出てきたことがあったんだ。滅多に会えない人で、昔の記憶ではよく遊んでもらっていたと思うが。別に普通の夢だったし、特に変わりもなくて大した物語りではなかったのだけど。私はおじいちゃんに会えたことが嬉しくて翌朝、お母さんに伝えようとしたんだ。するとその朝、お母さんは言った。「おじいちゃんが、亡くなったのよ。」って。私はとても悲しくなってしまったし、幼いながらに「そういうことだったのか」とも少しだけ思ったんだ。強烈に覚えている。子供はやっぱり動物に近いから、本能が強かったのだろう。お化けが見える人とかも本当は感覚のまま生きているだけで、本当は単純に他の人よりも意識が強く、澄んでいる人なのかなぁとさえ思うよ。

話は戻るけど。
子供じゃなくたって、お化けが見える人じゃなくたって、私達のカラダの中には「虫」が存在しているのである。「虫のいどころが悪い」なんて言葉もあるように。腹や、脳や、肌を通して自分の身を守ったり、仲間を守ったり、あるいは本当に大事なシーンを逃さないように飼っているんだ。そして人が死んだ時、その虫は自由になるのだろうね。

そんな
虫のことなんて忘れてしまい、現代人はこの時代の文明に頼りっぱなしなのだ。自分の脳の代わりにアプリを使い、足の代わりにアプリを使い、会話の代わりにアプリを使う。そんなことだから目と目が合う瞬間も、肌と肌が合う瞬間も、声が混じることさえも日に日に薄くなって。感動は然り、危機管理の能力は著しく薄れてしまったのだと思う。

だから初めに言ったように、私たちは犬や猫や鳥や、子供なんかよりもずっとぼぅっとして生きている。私はもう一度そういうことを思い出して今を生きようと、人の肌にたくさん触れる仕事をしだした。私が先陣をきってそうすることで、みんなに思い出してもらう作業さ。



とても気持ち悪い。
ここはものすごく澄んでいる。
早く帰ったほうがいい。
触れてあげたい。
安心できる。
触られたくない。
鳥肌が立つ。
理由のない涙が流れる。
悪夢を見る。記憶が戻る。

そういう単純なことばかりでいいと思うんだ。

この世で生きてきてこびり付いた、「雑念」が剥がされて。自分の身ひとつになった時、私たちはもう少し研ぎ澄まされて、芸術のような閃きを帯びていくのかもしれない。

人と人はエネルギーを交換して生きている社会的な生き物だから。きっと自分を守るためにも、誰かを救うためにも、爆発的に生きるためにも、ぼぅっとしてちゃダメなんだ。感情が、感性が、感覚が必要なんだと思う。
感動して生きよう。今夜はそんな感じです。

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