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ショートショート『「なんで?」』

——清水美里は俺の同僚だ。高校時代に一度同じクラスになったことがある以外はあまり接点など無かったが、同じ部署に配属され、話をする機会は多かった。どちらかというと無愛想で、少し口が悪くて、感情の起伏が分かりにくい彼女との会話は、大抵俺ばかりが喋って、長く続かずに終わってしまう。そんな関係に不満を感じていたわけではないし、仕事はそれなり楽しくやっていた。

…ところが、最近、彼女の顔を見ていると胸が詰まる。俺に掛けてくれる言葉がいちいち胸に刺さって、鼻の奥がつんとなる。間近で顔を見上げられると胸がざわざわする。そんなあれこれに気が付いて、俺は一人首を捻った。一体どうしてしまったのか、さっぱり分からなかった。それをこの前、彼女本人に聞いてみたが、全然まともに取り合ってくれなくて何だか悲しくなった。残業ですっかり遅くなってしまった仕事帰り、俺が彼女を車で自宅近くまで送り届けたときのことだ。
「…なあ清水」
「何?」
「…誰かの顔見ててさ、なぜか心が落ち着かなくなるっていうか……、なんかちょっと焦りとか悔しさに似たみたいな、何かこう……分かる? なんかそういう気持ちになることってある?」
「……はぁ? 全っ然意味がわかんなかった」
「な! 俺も全っ然意味がわかんなくて困ってんだよ」
彼女がちらっとこちらを見た。何かを確認するような目つきだった。
「…わたしもアンタが全っ然理解できなくて困ってる」
「え~~、そろそろ理解してよ~~、この前けっこう色々言ってくれたじゃん、周りをよく見てるから他の人よりどうとかこうとか…」
「それはアンタの言う『俺の勘』ってのが理解できたっていう話で、アンタのことが全部理解できたわけじゃないから」
「…そっか~~、清水に聞いても分かんないか~、う~~む」
「……」
少しの間、二人とも何も喋らなかった。俺は今しがた彼女に質問したばかりの、自分の不可解な感情について相変わらず頭を悩ませていたし、彼女も彼女で、賢い頭で何か色々考えていたんだろう。それでけっこう時間が空いたから、急に彼女が声を発したとき、咄嗟に反応を返せなかった。
「…他にはどんな感じになるの?」
「……え?」
「さっきの『顔を見てると』ってやつの続き。他には?」
「ああ…えっとね、」
そのときは、彼女が一緒に考えようとしてくれていると感じて少し嬉しかった。俺は彼女に説明するために、もう少しじっくり考えてみた。
「…俺だけが知らない表情があるって思うと、むしょ~に悔しくてちょっとイライラする。…『ふ~ん俺にはそういう顔見せてくれないんだ、他のみんなには見せてるのに』って感じ。それなら俺だって隠し事ばっかりしちゃうからな、みたいな?」
言いながら頭にあったのは、最近耳にするようになった「清水の笑顔が可愛い」という話だ。社内の人間関係に慣れて打ち解けてきたのか、プライベートで何か良い変化が起きたのかは知らないが、「前はもっと無愛想だった清水が最近よく笑うようになった」と、同僚や先輩達がみんな同じようなことを言っているのに、俺には全くその実感が無かった。俺は人を色眼鏡で見るほど性格が悪くないし、彼女と話す機会が他の人より少ないというわけでもなかった。それなのに、俺は彼女が笑うのを見て「可愛い」と思った記憶が全く無かった。というか、彼女が俺に笑いかけてくれること自体、滅多に無い。あっても「ふん、」みたいな、人をバカにするときみたいな(実際バカにしてるに違いない)憎たらしい笑みくらいのものだ。そんな顔を見てみんなが「可愛い」と思っているとすれば話は別だが、それはまずあり得ないだろう。
「……そうやって茶化しながら喋るってことは、そんなに悩んでないってことだよね」
不意に彼女がそう言うのが聞こえ、俺はムッとなった。
「あ~あ、そうやってまじめに取り合ってくれないんだもんな~清水は。俺泣いちゃう」
「いいんじゃない? きっと疲れてるんだよ、泣いたらスッキリすると思うよ」
「……ちぇ、冷たいのな」
俺はそっぽを向き、窓外を見つめた。…ちゃんと向き合ってくれたと思って嬉しかったのに、あっけなく無下にされてがっかりしていた。でもその落ち込みが意外なほど深くて、俺はまた訳が分からなくなった。こんな些細なことでこんなに落ち込むほど、俺の心は脆かっただろうか?

「なんで俺には笑ってくれないんだと思う? なあなんで?」
「…知りませんよ、本人に直接聞いたらどうですか?」
「え~聞けない。『嫌いだから』、とかって言われたら傷つく」
「それは無いんじゃないですか? 知りませんけど」
彼女が部長に呼び出されて不在なのをいいことに、俺は後輩にダルがらみしていた。
「…清水ってさ、お前に俺のことどういう風に言ってんの?」
「え……『バカ』って言ってます」
「それ以外で」
「……『アホ』とも言ってます」
「それ以外で!」
そこで後輩はぎゅっと顔をしかめた。「ああもう鬱陶しいな」と思っている顔だ。思っていることが分かりすぎるほどすぐ顔に出る彼は、乗せやすいしからかいやすいので社内でいじられキャラになりつつあった。本人は絶対に認めたがらないが。
「…清水さんは伊藤さんのことすごく評価してますよ、『わたしには無いものを持ってる』って。『けっこうあいつに気付かされることがある』、ってだいぶ前にも言ってましたし」
「……ふ~~ん……」
それを聞き、俺は単純にもだいぶ機嫌が良くなった。分かりやすいのはもしかしたら俺も同じかもしれない。後輩は呆れたようにため息をついた。
「…伊藤さんって…なんでそんなに清水さんの笑顔が見たいんですか?」
「…え?」
「見てどうするんですか? 清水さんを可愛いって思いたいんですか? なんで?」
机から机を行ったり来たり、書類をまとめたり抽斗を開けたり、忙しそうに動きつつ話す後輩の言葉を聞きながら、俺は棒立ちになっていた。「なんで」、その答えを俺自身が見つける前に、一度ちらっと俺の顔を見た後輩がこう言った。
「伊藤さんって、まるで清水さんのこと好きみたいですね。…あ、この『好き』は恋してるって意味の方ですけど」

後輩は何の気なしに言ったのかもしれないが、言われた俺はあっさり受け流すことはできなかった。俺は唖然となり、動揺する自分を落ち着かせるためにもとりあえず「いやいやいや、何言ってんの」と返してはみたものの、笑い方がぎこちなくなっていたのが自分でも分かった。幸い後輩は既にこちらを見ていなかったので表情は見られずに済んだが、俺は途端に居心地が悪くなり、「あっ、そういえば課長に訊くことが……」などとテキトーなことを言いながら部屋を出ようとしたのだが、タイミング悪くちょうど戻ってきた清水と扉の前で鉢合わせし、俺は思わず「うわっ」と不自然な驚き方をしてしまった。
「ちょうどよかった。今から出るよ」
「えっ…何で、」
「先週の、新規事業の件。進展があった。向こうの担当と話しに行くよ」
回れ右をしながら、彼女は俺の腕を掴んだ。別に何も特別なことなど無い。無いのに、このときの俺はいつも通りとはいかなかった。彼女に捕まれている左腕が熱を持つのを意識し、心臓の鼓動が早くなったことにも気が付いてしまった。
「なんで」と聞いた後輩の声が甦った。なんで。顔を見ると胸が詰まるのは? 言葉が胸に突き刺さるのは? 見上げられると胸がざわつくのは? 可愛く笑うのを見てみたくて、俺にだけ見せてくれないのがこんなに悔しいのは? なんで? ……全部の答えが見つかった。俺が、彼女のことを好きになってしまったからだった。

#クリエイターフェス

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