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精神科医がスピリチュアルマスターに話しを聞いてみた

僕は、すごく緊張しいです。

こうやって、文章を書く分には、
もちろん、緊張はしないのですが、

人間に会うと、
人見知りと言っていいのか、

まるで「自分」がどこかに消し飛んでしまったような感覚があって、
「自分」が消し飛んでいるから、
その時は飛んでる感覚もわからない。

ふと我に返った時に、
あれ??
という感じになって、
なにか自分ではなかったな、と、
後で気がつくわけです。

なので正確には、緊張、という言葉とは、
ちょっとニュアンスが違うんですけどね。

このnoteやブログを読んでくださった人から、

書かせたらと別人、とか、
え、そんなふうに考えていたの? とか、
文章はよくわかるけど、
しゃべらせたら意味がわからない(笑)

とか、書くこととしゃべることのギャップに
驚く感想をいただくことがあって、

僕はそれは、イマイチ実感的に、
よくわからないんです。

自分では同じ自分だとしか、
考えられないので、とても不思議。
でも、確かに後で正気に戻った時に、

あれ? ほんとの自分とは、
ちょっとズレて喋ってるな、
本当はこういうことが言いたかったのにな、

と、思うことがあって、
正気な時の自分と、しゃべる自分の差を、
できるだけ小さくできないかな、
というのが、長年の僕の自分研究です。


あぁ、また前置きが長くなって本題に
たどり着けない気がしてきたので(笑)
先にすすめましょう。

先日、とあるマスターの方とお話しする機会があったのです。
いわゆる神的なものとの交信のような一瞥体験をされ、
その後、仏教や哲学を勉強して言葉で伝えておられる人。

スピリチュアルティーチャー、
悟りを体験した覚者、、
イメージがわくでしょうか。

アヤシイですか?(笑)
僕は自分にフィットする、
この人はマスターだな、
と思う人を何人か決めていて、
その自分の感覚をとても大事にしています。


さて、話しを対話場面に戻すと、

もちろん、僕は緊張しました。
ここまで強いと、
その場でドキドキがあるのを感じている
自分を捕まえることができます。

こうやって、人間に会うと、
ドキドキして、自分を見失ってしまうので、
どうにかしたいと思ってきました、
という今の気持ちを伝えました。

マスターは
何が可笑しいのか、
ニヤニヤと半笑いの笑みを浮かべて、
たとえ話を交えて、面白おかしく話すので、
こちらまで楽しくなってきます。

・・・

そのドキドキがあっては、ダメですかねぇ。
その感覚がなければ、
とてもつまらなくないですか?

例えば初めてのことや、
ジェットコースターとか、
お化け屋敷に行くのに、
緊張がまったくないとしたら、
何も面白くなくないですか?

何が問題になるのでしょう。

そんな気持ちではいけない、
表に出してはいけない、
なにかの役割に縛られて、
そうであってはならない、

その取り繕い、隠そうとする姿が、
痛々しくないですか。
それが苦しみではないですか。

期待に答えたい、
思い通りにこころとからだをコントロールしたい、
その思いが悩み苦しみになる。

だって、そもそも、こころもからだも、
コントロールできませんよ。

それは、あなたのせいでもないし、
あなたの責任でもない。

そして、誰かのせいということも、
本当は、ない。
誰の責任でもない。

それが起こっているだけ。

わたしがいる、
という勘違いによる、
苦しみ。

わたしがいる、といのは、
自我のシステム、分離の意識。

わたしは、どこに居ますか?
脳? 身体? 意識?
どこをどう探しても、そんなものはない。

わたしはいません。
いのちがあるだけ。

わたしたちは、
からだにいのちが宿っている、
という言い方をしていますが、
そんなことはありえない。

いのちがからだを持っている、
全体のいのちが、
からだという形を体験しているのです。

そして、いのちが求めているのは、
だだひとつ、いのちの実感、です。

生きてる証拠、が欲しい。
それが、感情、気持ち。

その実感を得るには、
2つの方法があって、
プラスの感情と、マイナスの感情。
どちらでもいいから、
実感であればいいわけです。

苦しみ、で実感するか、
喜び、で実感するか。

苦しみで実感することを、
仏教ではカルマ、と呼び、

喜びで実感することを、
ダルマ、と呼びました。
正確には、ゼロ、
プラスでもマイナスでもないところ。

いのちは、どちらにせよ、
実感を求める性質がある。

平和なんて退屈だわ、
ドラマが欲しいわ。
となるわけです。

なのに、
その生きている実感、
感情を感じないように、

役割や期待の中で、
押し殺してしまうと、
精神疾患になります。

あなたがあなたのままで、
いったい、何が問題なのでしょうか。


・・・

と、まぁ、
話はまだまだ続くのですが。
このへんで。
(※ 僕の解釈を多分に入れているので、逐語録ではありません)


精神科治療についても、
いくつかアイデアをもらいました。

具体的な方法論はここでは書きませんが、
要は、何を言われていたかというと、

自我のプログラムの影響を軽減する、

ということにつきると思います。

そして、麻痺させてきた、感じるこころを、
小さなところから、例えば五感を取り戻していく、
ということを、おすすめされていました。

いや、ほんとにそうだなぁ、
と思いました。

考えてみれば、
向精神薬も、対症療法ではありますが、
自我のプログラム(自分がなにかしなきゃいけない意識)の影響を軽減する、という文脈で、治療効果(というか、自己調整の再起動)を促進しているのだと思います。

そのような回復のサインは、
体験的には、

ちゃらんぽらんになる、とか、
うっかりものになる、

という感覚だと思います。

・・・ほら、いま、
自我の声が聴こえました。

ちゃらんぽらんはイヤだ!
気を抜かないようにしなきゃ!
しっかりしておかなきゃ!

それが、自我のシステムです。
そして、それでいいのですね。
どうにもコントロールできない。
ただ気がついています。
ただ体験しています。

そのまんまで、
なにも、問題はなかった。


マスターとの対話、
自分だけで、ニヤニヤするのも、
なにかもったいないので、
シェアします。

読んでもらって、一瞬でも、
あなたの自我の雑音が静まり、
本来のこころの平和を感じる瞬間を
見つけられたら幸いです。

読んでくださって、
ありがとうございます。

では、また。



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