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方法としての心療内科

よく、こんなことで心療内科を受診していいのでしょうか、
と、不安そうに問われることがあります。

心療内科/精神科って、
たしかに、こころの悩みの、
独占市場、専売特許ではないですよね。

肺炎とか、骨折とか、
わかりやすい身体の症状なら、
呼吸器内科、とか、整形外科、とかが専門で、
まさか、占い師のところには行かないでしょう(笑)

でも、こころの問題では、

苦悩、ストレス、葛藤、生きづらさ、
原因不明の体調不良、、

啓発セミナーや、健康法の教室に相談に行くかも知れないし、
人生の在り方を説く人格者や信仰のお話しで、目覚めるかも知れないし、
趣味やサークル活動の出会いが回復に繋がるかもしれないし、
占い師の一言が、俯瞰的に視点を切り替えるヒントになるかも知れない、、

心療内科、というのは、
こころの悩みに対する、
数ある考え方のうちの、

一つの方法、手段である、
とも言えると思います。
(ほんとは身体疾患でも同じと思うけど)

例えば、パニック障害、摂食障害、発達障害、
強迫性障害、適応障害、うつ病、自律神経失調症、、

自己判断のリスクは、今は、
ちょっと置いておくとして考えると、

心療内科という方法を選ばなくても、
回復可能性があると思います。
むしろ、他の方法のほうが、
病院行くより、全然よくなった、
ということもありうるでしょう。


では、方法としての心療内科を、
こころの問題を医療として扱うという方法論が、
他の考え方とどう違うのか、考えてみると、、

診断・病名をつける、ということが、
他の方法論との違いかな、と思いました。
(良くも悪くも)

疾病モデルなので、様々な医学的知見、仮説に基づき、
自分の生体の健康ではない問題点を病巣として捉えて、
ケアの可能性を検討する、
という発想になるのが、
他の救済手段、サービスと異なる点。


病気と診断するということは、前提の話しとして、
自分の生体にトラブルが起こっている、
しかし、個体が持つ自己調整、治癒システムを超えていて、
個人の意思や努力では、動かしようのない障害となっている。
だから本人の責任ではないので、
医学的、心理的、社会的に援助が必要である、と、
専門家が責任を持って判断する、ということだと思う。


患者さん当事者からしたら、
自力ではどうにもならなくなったことを、認める、
誰かのせいでもないし、状況を恨んでもしょうがない、
そして、自己責任でもない、自己否定は止める、
病気のせいだと、あきらめる、ゆだねる、まかせる、
というのが、前提にあると思います。

まぁ、そこまで、腹をくくること自体が、
治療のプロセスでもあるし、
時間がかかるんですけど、ねー。


医療という方法って、
自分の課題を改善するために、

いったん、
自分の力を手放し、
責任を免除して、
自己受容する、

そのほうが、逆説的に、
変えられなかったものを、
変えられうる、

という、変容の逆説的理論を、
内包しているのだなぁ。

医療って、意外にスピリチュアル!
と思ったのでした。



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