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そこにある平和を感じる知覚がまだないだけ

お休み明けで、リフレッシュクリーニング後のお仕事。
僕にとって、絶好調な一日でした。
なんだろう、この至福感は。
ということで、幸福感と平和についての研究。

僕は、告白しますと、
他人の幸せ話を聞いてても、
表向き、よかったね~!と調子を合わせながら、
こころの中で、ダークネスな自分が、

あ、そう、
それ、なんの自慢?
マウント?

って、
スネてしまって、
素直に一緒に喜べないほどの、
器の小さい人間ですが(笑)

それは、自分自身がどこかで、
自分の幸福感で、他人を見下している自分が、
いるからかも知れない。

他人の幸せそうなSNSやブログの投稿を観て、
チェッと思ったり、落ち込んだりしてしまう、

人の幸せを素直に喜べないアナタ、
自分が人をどう見ているか、ほら、
もう、自分には、隠しきれてないですよ(笑)

そして、まぁ、そんな自分もいますわね。
意地悪、性悪な自分さんも、
いてもいいですよ。


一方で、幸福感そのものという人、
内側からあふれる喜びそのものを発している人、
というのは、ひねくれた大人でも、
素直にこころを開かせて、ホクホクさせてくれます。

子どもが全身で喜ぶ、イキイキと躍動する感じとか、
ふとしたトラブルの最中の何気ない笑いだったり、

自然に周りもポカポカ暖かくなって、
閉じていたこころのガードも、開かれていく。
意図が無いから、自分の中の幸福感と繋がれる。

自分の中にも、意図していない、そんな小さな幸せを
見つけると、嬉しくなってきます。

小さな幸せは、ふとしたことが、特別に見える。
逆に、ジェットコースターみたいな特別なことは、
刺激的だけど、濃い味過ぎて、作為的に思えてしまう。

例えば、
何気ないこと、ふとしたこと、

気がつくと、朝の蝉の声の勢いが小さくなっていて、
風に少しだけ涼しさが混じっていることを感じる、朝の空気。

例えば、
エレベーターから出てきた人が、…あれ?ここ、3階ですか?
と間違えて、照れくさそうに言葉を交わす瞬間のテヘペロな表情。

例えば、
電車に乗り遅れて、切符も買い間違えて、オロオロして、
(自分、おじいちゃんかっ!)と、こころのなかで、
一人ツッコミを入れている自分が、可笑しくてしょうがない時。

ゴミ収集車が来る時間に、パンパンに詰めたゴミ袋が、
ちゃんと回収して行ってくれるか、
カーテンの隙間からこっそり見届ける自分。

そんなことが、インスタ映えするみたいに、
鮮明なヴィジョンとして浮き出してきて、
たまらなく、きゅんきゅんしてしまうのだ。

今まであわて過ぎていて、見えなかったもの。
急ぎ過ぎていて、感じられなかったもの。
あったんだ。

そこにあるもの。

多分、まだまだ、見えてない。
ほんとは、そこにある幸福を。
ほんとは、そこにある平和を。

だまし絵のように、目の前にあるのに、
見えないものが、そこにあるじゃないかと、
気がつく経験をすると、

ひょっとすると、
不運だ、不幸だ、どうしよう、
という場面でも、
実は、広大な平和的事象の一部であって、

ただ僕のちっぽけな視点と感性から、
慌てて勘違いを見ているだけで、
それは広大な平和そのものではないか、

との疑念がわいてきた。

まだ、平和を見る知覚を、
持ち合わせていないだけ。

そこにある幸せ、
そこにある平和、

いつもある。

でも、こころが開かれていなくて、
ただ感じられなくなっているだけなんだな、
と、忘れないようにしておこう。


↑ それ、忘れて何度も同じこと言ってますけどね(笑)


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