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高卒で営業未経験、21歳の若手が自ら切り開いたM&Aプレーヤーへの道

緒方さん:
熊本県熊本市出身、現在21歳。尊敬する父の背中を見て育つ。野球の名門である熊本工業高校を卒業後、2021年4月に九州電力送配電株式会社へ就職。3年間の勤務を経て、2024年4月よりM&A仲介を担う株式会社ペアキャピタルへ転職。2人の妹を持つ長男。


父という大きな存在


ー 事前に伺った情報によると、野球少年だったそうですね。

小学4年生の時に、地元の野球チームに所属しました。きっかけは父に誘われたことでしたが、その父自身は野球がうまかったわけではなく、だからこそ「自分はうまくなろう」と思って努力しました。
小学生の頃はキャッチャーを務め、中学で野球部に入ってからはセンターのポジションにつきました。これは、野球をやっていた父がセンターだったことに影響を受けただけではなく、部活で試合に出るためには、すでに枠が埋まっていたキャッチャーよりも、センターのほうが可能性を高められるのではないかと考えたことが一番の理由です。

ー 当時の思い出を教えていただきたいです。

中学生時代、野球部では副キャプテン、体育大会では副団長を務めました。チームをまとめる役割は好きだったのかもしれません。このような時に常に意識していたのは、言葉よりも行動で示すようにしていたことです。そう考えるようになったのも、父の影響を受けたからだと思います。

ー 緒方さんにとって、お父さんは特別な存在だったんですね。

父は、私が最も尊敬する人物の1人です。今までの人生で、大きな節目があるたびに父に相談していました。父は自分の意見を主張するのではなく、まずは相手を理解するところからコミュニケーションに努めており、その背中を見て自然と様々な学びを得ることができました。
これまで私の決断は父から否定されたことがありませんし、なにか悩みがあった時も、父は私のことを理解しようと努めてくれました。そのおかげで、節目節目で自分を見つめ直すことができました。
高校卒業後、仕事を本気で頑張ろうと思った時には、父から「いろんな世界を見たほうがいい」と言われてアメリカ旅行をしたり、今回の転職活動で必要になった資格取得の際には「焦らないで楽しくやれば、絶対にできるから」と背中を押してくれたりしました。
私自身、まだ20年ほどしか人生を経験しておらず、自分で自分のことを十分には理解できていません。その私に対して客観的なアドバイスをくれる父は、私にとって非常に大きな存在です。

ー 中学卒業後の進路について教えてください。

甲子園常連校の熊本工業高等学校で、電気科に入りました。中学生時代、私にプライベートで野球を教えてくださっていた方がいたのですが、その方は熊本工業で甲子園に出場した経験を持つOBでした。私は直接指導を受けるために、自主的に連絡を取って自宅まで伺っていましたが、このことが熊本工業を選ぶ理由の一つになりました。
ただ、本気で野球を続けたかったことも確かに高校の選択基準になっていましたが、熊本工業の電気科の成績上位者には九州電力へ就職する道が用意されており、卒業後の進路に希望が持てたことも決め手の一つです。

ー なぜ九州電力に?

2016年4月、私が中学生の時に熊本地震が起きました。震源地は自宅からとても近いところで、その被害は甚大でした。生活インフラも停止し、普段は当たり前のように使っている電気やガス、水道の有り難みをあらためて感じたのですが、このような状況においても電気の復旧は比較的早く、九州電力の方々の仕事に感嘆しました。「自分もいつか九州電力で働きたい」、そう思うようになりました。

甲子園開催中止がもたらした、部員にとっての「最高の夏」

ー 強豪校での部活動は、なかなか大変なことも多かったのではないでしょうか?

先輩たちが引退して私たちの代になる時に、監督に呼び出されました。私は一軍に入れるかどうかの実力だったのですが、ここで監督から「プレーヤーではなく、マネージャーとして部員をまとめる役割を担ってくれないか」と打診されました。
私は選手として試合に出ることを目標に練習に励んでいたので、この時はとても葛藤があり、どうしても諦めきれず練習に励んだ結果、二軍の試合でホームランを打つほど技術を磨くことができました。
しかし、それでも監督の考えが変わることはありませんでした。このことを両親に相談すると、やはりマネージャーになるという選択肢も否定されることはありませんでした。

ー 最終的に、どのような決断を?

監督の要望を受け入れました。冷静に考えてみると、私の上の代のマネージャーは、野球ができるだけではなく部員全員から厚い信頼を得ていました。その先輩を超える存在になることを目標に取り組めばいいのではないかと考えられるようになった時、自分を納得させられました。

ー マネージャーとして意識的に取り組んだことについて伺いたいです。

野球部は全体で約110人が所属しており、この規模のメンバーを統率するためには、言葉よりも行動で示すことで尊敬される対象にならなければならないと考えました。そこで、先輩である私が自ら後輩よりも早く朝練に行って準備をしたり、トイレも自主的に掃除したりしました。
また、野球だけではなく勉強にも更に力を入れ始め、3年生の時からは電気科で1位の成績を常に維持できるようになりました。

ー 素晴らしいですね。とはいえ、部員が110人もいれば大変なこともあったのではないでしょうか?

部活と勉強を両立させるだけではなく、仕組みも構築しなければならないと考えました。熊本工業は甲子園常連校であり、上昇志向が強いからこそ、中には我が強い選手もいました。ただ、自分が直接働きかけられる人数にも限りがあるので、チームを細分化して各グループにリーダーを置き、そのリーダーを介して全体とコミュニケーションを取れるように組織を構築し直しました。

ー マネージャーとして様々な工夫をされたと思いますが、特に記憶に残っている出来事はありますか?

私の代に、ちょうどコロナ禍の影響で甲子園が中止になりました。私はもちろんのこと、部員全員が涙を流しました。自分ではどうすることもできない状況の中、引退までは1ヶ月が残されており、「気持ちを切り替えるしかない」と自分に言い聞かせるしかありませんでした。
甲子園の中止が決まったちょうど1週間後に、県大会の初戦が控えていました。「ここでしっかり出し切ろう」とチームを鼓舞し、ベスト4まで進出することができたものの、準決勝の前日になって校内で新型コロナウイルスの感染者が現れました。この事実を受けて、野球連盟からは出場辞退を促されることとなりました。

ー 仕方ないとはいえ、もどかしかったのではないでしょうか。

そうですね。この時に受けたショックはとてつもなく大きく、とはいえ私はどうしても「最高の夏だった」と言えるようにしたくて、監督に「リブワーク藤崎台球場を貸し切って、自分たちの試合をさせてください」と働きかけました。監督からも賛同を得られ、私たちの代で40人いた部員をチームに分けて、保護者や関係者たちを球場に招待して試合を開催しました。私も1番レフトで出場することができ、試合は大盛り上がりでした。文字通り、「最高の夏」と言える思い出を作ることができました。
イレギュラーな事態に翻弄されたからこそ、その壁を一緒に乗り越えた時に結束力が強まり、当時の仲間とは高校を卒業してからも付き合いが続いています。

一度は「難しい」と言われたM&A業界


ー 高校卒業後の進路について教えてください。

九州電力の完全子会社である九州電力送配電へ就職しました。かねてからの目標だったこともあり、そのために上位の成績を維持していたので嬉しかったです。
事業内容は電気の保全・設計で、電柱に登って設備の点検を行うことが就職後の主な業務でした。目視することができない電気を扱う仕事で、一歩間違えば命に関わるため、1年目は研修所で先輩から厳しい指導を受けていました。
すると、私の指導役になっていただいていた先輩からの指示で、同期のまとめ役を任されることになりました。営業のような仕事と違って、私の業務の成果は数字に現れるものではなかったのですが、上長からは評価をしていただいていたのだと思います。というのも、私はそれまでの経験から、自分が本気で取り組めば周りの人もついてきてくれることを学んでいたため、誰よりも本気で仕事と向き合っていたからです。向上心だけは人一倍強く、自ら成長目標シートを作って、上長に毎週提出していたほどです。

ー 成長意欲がとても高いんですね。

ビジネスの知識もスキルも未熟である自覚はありましたが、情熱だけは誰よりも強く持ち続けていました。しかし、九州電力はレガシーカンパニーであり、人生経験の豊富な社員も多く、私の熱意を仕事に直接繋げることが難しい体制となっていました。
個人的な気持ちだけではどうにもできない現実があることを知った時、もっと自分が成長できる環境に身を置いて、果敢にチャレンジしていきたいと考えるようになりました。

ー そこから転職活動を始めたわけですね。

情報を収集する中でたどり着いたのがM&A業界でした。YouTubeを見ていると、ペアキャピタルの引田さんの1日密着動画が目に留まって、その姿に圧倒された私は動画の概要欄に載っている申し込みフォームに反射的に入力をしていました。
世の中のことをよくわかっていなかったので、私はペアキャピタルに直接応募をしたものだと思い込んだのですが、その後私に連絡をくださったのはRight Brothersの大澤さんでした。当時は「転職エージェント」の存在も知らなかったんです。

ー 大澤からの反応はいかがでしたか?

大澤さんと初めて面談した時に自分の経歴を伝えると、「難しいです」とはっきり言われました。正直、そう言われるだろうとは最初から思っていました。M&Aプレーヤーについて調べれば調べるほど、名だたる企業や華々しい業界で活躍していた人しかいなかったからです。でも、私は「気持ちでなんとかなる。いけるっしょ!」と思っていました。情熱だけは誰にも負けない自信があったんです。(笑)

ー そこからの挽回劇が気になります。

私の熱意を大澤さんに伝えたところ、「2日後に東京でM&Aプレーヤーとの交流会『今、会いに行きます(通称:いまあい)』があるので、そこで自身のキャリアについて先輩たちに意見を聞いてみては?」と提案されました。私は「行きます」と即答し、すぐに羽田までの飛行機を予約しました。

ー 行動力の高さに驚きました。(笑)

イベント当日、あの憧れの引田さんと直接お会いできたのですが、その迫力にやられました。他の会社のM&Aプレーヤーもイベントに参加していたのですが、どの方々からもオーラを感じました。M&Aの仕事に対する本気度を、当事者たちから感じ取ることができました。
ただ、やはりその中でも引田さんは別格でした。私が高卒であり、営業も未経験であることを伝えると「逃げてるね」と言われたんです。私はそれまでの自分の経歴に対して引け目を感じていたのですが、引田さんの一言で衝撃を受け、一気にギアが入りました。

ー イベントが緒方さんのためになったようで良かったです。

「いまあい」では、現役のM&Aプレーヤーだけではなく、私と同じ立場にいる求職者との出会いもありました。銀行員の方とも連絡先を交換し、M&A業界への転職に向けて具体的に情報を提供いただくこともありました。もちろん全員私よりも年上の方々ばかりで、その日に初めて会ったはずなのですが、いつしか打ち解けて、今でも連絡を取り合う関係性になりました。

「ありのまま」を大事にしていた転職活動


ー イベント後の活動について教えていただきたいです。

翌日、大澤さんから連絡を受けてペアキャピタルを受けることになり、人事との一次面接を通過して田中社長との二次面接に臨むこととなりました。ここで生かされたのが、大澤さんからいただいたアドバイスでした。

ー どのような内容でしたか?

大澤さんからは、「いいキャラしてるから、ありのままで行ったほうがいい」と言われ、自分の良さを引き出してもらったような気がします。そのアドバイス通り、田中社長に対して包み隠さず自分のことを話しました。結果がどうであれ、自分のストーリーや意思、価値観を素直に伝えなければと考えたからです。


ー 田中社長の反応はいかがでしたか?

田中社長からは「真にこの業界を志しているのであれば、業務面で必須となる財務知識の勉強や、簿記2級の取得等、努力を開始しているのではないか。想いの強さや覚悟が足りない 」と言われてしまい、やはりそんなに甘い世界ではないことを痛感しました。ただ、それは逆にいうと、簿記2級さえ取ることができれば内定をいただけるというメッセージでもあり、それから1ヶ月間は猛勉強しました。「なにをやるべきか」よりも「なにをやらないべきか」と優先順位を考え、とにかく簿記の勉強に集中するためにインスタグラムのアカウントを消したくらいです。その際、友人に余計な心配をかけないように「M&A業界に挑戦するからインスタグラムを消すことにした。見ておいてくれ」と宣言し、無事に資格を取得することができました。

ー 緒方さんの意志の強さが伝わってきます。

私のモットーは「自分の決めた選択を正解にする」です。高校生の時に野球だけではなく勉強にも力を注ぐことができたのは、「1位になる」と自分で決めたからでした。とにかく自分との約束を守り抜く。そうやって、誰よりも努力することで少しずつ成長してきました。一度決めたら、その目標を達成するまで本気で取り組むことができるのは、自分の強みかもしれません。

ー その原動力について教えていただきたいです。

おそらく、「かっこよくありたい」という想いがあるのかもしれません。私にとっての「かっこよさ」とは、発言と行動が一致している状態のことを指します。その積み重ねを今後も続けて、今よりももっとかっこいい人間になるので、見ていてください。

ー 貴重なお話、ありがとうございました!

♦︎Right BrothersのオフィシャルHPはこちら👈


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