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ベトナム・コロナ・足止め記 ~もしかしたら今すごく幸せかもしれない~

ベトナムに住んで2年弱が経った。
ここ2ヶ月ぐらいで、「もしかしたら私今すごく幸せなのでは」と思うことが増えた。

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ベトナムは4 月23日ごろから社会隔離政策が緩和され、今は完全に日常が戻っており「コロナ一過」感があるのだが、それにより「幸せ」と感じる余裕が出てきたのかもしれない(それ以前は、「これからどうなる」というソワソワの方を強く感じていた)。5月からヨガと早起きと瞑想が習慣付いて、同じ状況でも幸せを感じやすくなったという面もあるかもしれない。

しかし、全く同じ状況でも、半年前なら幸せを感じなかっただろうな、と思う。

それは、「ベトナムに住む日本人として、ベトナム的思考と日本的思考の間で揺れていた私が、コロナを機にベトナム寄りで落ち着いた」という、私個人のものすごく独特な思考の決着があったからだと思う。

以下、ベトナム的思考と日本的思考について、話していく。

■ベトナムがイージーゴーイングな理由

前回も書いた通り、ベトナム人と日本人は思考様式が大きく異なり、それは気候が形作っているのではないか、と私は思っている。

たとえば、日本人は飢えてもいないのにやたら将来を不安がって貯金したり、手に職をつけたがる気質があるが、これはどう考えても多すぎる災害と寒すぎる冬のせいだ。古来これらに苦しめられてきた日本人は、たとえ現代になり、インフラや経済力などの国力でこれらを克服しようとも、大昔に津波や飢饉で多くの人が死んでしまった記憶が、消えていない。「油断すると死ぬんだよ」というマインドが、民族意識に刷り込まれていると思う。

対してベトナム(に限らず南国全般に言えることだと思うが)、年中温暖な気候のために、自然の恵みが非常に豊かだ。どれぐらい豊かかと言うと、誰も世話していない路上の木に勝手に実がなって、ボトボト落ちるが誰も拾わず、バイクに轢かれまくっているぐらいだ。そしてこれが大事なのだが、年中温暖なので、外で寝ても死なない。つまり、あくせく働いて寝床を確保しなくても、最悪死なない。

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「貯金が無くても保険未加入でも、当座生きてりゃオッケー」というスタンスの人が、日本よりはるかに多いのは、この気候のためだと思う。

■ベトナム人・貯金ゼロ・エピソード

貯金ゼロと言えば、びっくりしたことがあるのだが、私のマンションの隣の部屋に住んでいたベトナム人の弁護士が、かなりカジュアルに借金を申し出てきた。彼女は面倒見が良く、英語も上手なので、在住間もない私の世話をいろいろ焼いてくれていたのだが、ある日の出勤間際、隣人である私のドアを叩いて
「歯医者に行かないといけないんだけど、今月の給料がまだ入っていないから100万ドン(約5000円)貸してくれない? 来週返すから!」
と言ってきた。
私と同じマンションに住んでいるということは私と同じぐらいの経済状況だろう(というか年上と言うこともあっていつもご飯をごちそうしてくれていたし、弁護士だし、私より羽振りが良いぐらいだと思っていたのだが)、

歯医者に行く貯金も無いのか……? 

お金は無事返ってきたものの、ちょっとしたカルチャーショックだった。

■資本主義は北国の病気

話は戻るが、
「北国は飢え死ぬ可能性があり、それは資本主義と相性が良い」というのが、私のすごく雑な世界史の捉え方だ。

もちろん歴史にはいろんな要因が絡まっているものだが、
「貯金したり、富を増やして更にその富を回して富を稼ぐ……」という資本主義的な発想は北国で生まれたし、近代以降の世界をリードしてきたのも北国ばかりだ(シンガポールみたいな人工的に作られた例外的な国はあるけど)。

いまや資本主義が世界を席巻しているから忘れがちだけど、あれは基本的に北国のものなんだろうと思う。

だから、資本主義に首まで浸かって北国で生まれ育った私が、ベトナムに移り住むと、「不思議な光景」に出くわすことになる。

それは、「毎日同じ場所にたたずんで、何もしていない人」である。

日本で、北国の思考様式にどっぷりハマってきた私は、はじめ彼らの佇まいに相当な違和感を覚えた(し、観光客ガイドをしている時も、日本人観光客はほぼ必ず「道で何もしていない人がいますが、あれは何をしているんですか?」と聞いてくる)

もし私があの「何もしていない人」だったら、「このままでいいの?」とか「ずっとこうしてるの?」とか「これからどうする?」とか、考えるだろうし、そもそも毎日同じ場所で何もせず佇むなんて無理で、なんかしちゃうだろう。

しかし、在住歴が長くなると、毎日浴びるベトナムの日光とともに、彼らの思考様式が染み込んでくる。
「このままでいいの?」とか「ずっとこうしてるの?」とか「これからどうする?」とか、考えるのは、北国の病気なのだ。

発展とか、成長とか、全部病気なのだ。

ベトナムには、そう思わせる何かがある。

帽子なしでは外に出られぬほどの日光が降り注いだかと思うと、急に、洗車マシンに街ごとぶっこまれたようなスコールが降り、「前向きなやけくそ」みたいな気分になる。そしてその雨のおかげで草木がぐんぐん成長し、果物も野菜もタダみたいな値段で買える。

「ああベトナムは自然のままで十分豊かなのだ」と感じる。

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そもそも私がベトナムに来た理由は、「何をしていいか分からなくなったから」だった。
理由も必然性も無くとりあえずベトナムに来ただったのだから、「せっかくベトナムに来たんだから何かしなきゃ」と思うのはおかしい。

のだが。

■北国の揺り戻し ~いつまでこの「ぬるま湯」にいるか~

ベトナム在住日本人がよく言う言葉に「ぬるま湯」がある。

私がベトナムに移り住んだばかりのころ、在住歴2年の「先輩」と話していた時のことだ。
「ベトナム最高!大好き!」
とはしゃぐ私に対して、彼女は
「はじめはみんなそういうけど、半年ぐらいすると変わるよ」
みたいなことを言ってきた。
それは、「半年ぐらいすると、ベトナムの嫌な面も見えてくる、という意味?」と思ったら、そうではなかった。
「ベトナムは大好きだけど、ずっとここにいてもいいのかな、と思う。こんな楽園みたいなところにずっといて、ぬるま湯に浸かってていいのかなって、思う」
のだそうだ。

結局「先輩」はその後、当時から付き合っていたベトナム人の彼氏と結婚し、彼氏の田舎でベトナム式結婚式を挙げたから、現在はこのようなことはもう考えていないと思う。

しかし、彼女ように腰を据えてベトナムに住むと決め込んだわけではない日本人にとって
「いつ日本に帰る?」「いつか日本に帰るなら、いつまでこの『ぬるま湯』にいるの?」
という問題は常に頭にある。

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私もそうである。
「ベトナムは好きだけど、永遠に住みたいわけではない」
「当座の仕事はあるけど、ベトナムでしか出来ないことで、だから日本に戻ったらキャリアにならない」
「今は実力というより、「海外在住している日本人」という価値によって仕事をとってるにすぎない」
「ゆくゆくは日本(というか世界のどこでも)出来る仕事で食べていきたいのに、今このまま海外在住者バリューで仕事していていいのか」
という懸念が常にあった。

だから、いくら収入が増えて、日本では考えられないような贅沢――思い立ったその日に飛行機をとって、南の島の5ツ星ホテルに泊まりに行くとか――ベトナムの成城石井的なスーパーで思う存分買い物するとか――が、出来るようになっても、浮かれる余地が無かった。物価マジックのおかげだし、レアキャラバリューのおかげに過ぎないのだ。

このように、在住二年弱に至る私の頭の中は、ベトナム的な「今が良いんだから、このままでいいんだ」的な価値観を日々浴びながらも、北国的な「このままでいいの?」的価値観に揺り戻される……ということの繰り返しだった。

それは、今日も明日も気温は30度、晴れ時々スコールの日々の中、突然「冬が来るかもしれないな」と、母国の季節がフラッシュバックするような、不思議な感覚だった。


そんな中、コロナが来た。

■コロナで潔く諦めがついたもの

コロナのために、世界のムードが
「発展! 成長! ガンガンいこうぜ」モードから
「現状維持。いのちだいじに」モードに変わったと思う。

通常モードなら
「将来につながる仕事をしないと意味が無い。キャリアアップ!」とか考えていた人も、
「当座の仕事があるならありがたい。転職するにしても今じゃない。あまり動かないようにしよう」
という方針にシフトしがちであると思う。

物理的に、ヒトやモノが動きにくくなってるし、精神的にも、新しいことをやる人は通常より少ないのではないか。
もちろん、物理的に新しい環境に移ることを余儀なくされた人(自宅ワークとか、自宅育児とか)、この時期だからこそなきっかけで結婚した人、離婚した人、辞職、転職した人もいるだろう。
自分の意志に反した変化が起きた人もいるだろうし、むしろ自分から前向きに変化をつかみに行った人もいるだろう。

私の場合は、これを機に北国の病気が抜けて、今の幸せを素直に享受できるようになった。
それは
「今は仕事があるだけありがたい。失業してる人もいるんだから」
とか
「ロックダウンされてる国も多い中、ベトナムは自粛解禁されて平和だ。外に出かけられるって幸せだ」
みたいな、他と比較して幸せを噛み締めるというものではなくて、

なんというか、

「発展? 成長? もちろんした方がいいかもしれないし、した方が人生楽しいかもしれないけど、マストじゃないし、そもそも今いる場所を噛みしめて味わわないと、成長も発展もないよね」
「今は変化ではなく、『変化待ち』の時期。機が満ちたら勝手に変化は来るっしょ」

という気分。

なんというか、諦めがついた。
「日本へそろそろ帰りたいな」あるいは「いつまでもぬるま湯に浸からず、帰らねば」という選択肢が、コロナのお陰で頭から消えたからかもしれない。

「今日本に帰ると空港で隔離されるし、不景気の中新しい仕事を探すのもしんどすぎる。なるべくステイベトナムしたい」
という気持ちから、積極的にベトナムでの幸せを取りに行っている。

別に死ぬまでベトナムにいたいわけではないのだが、可能なら、コロナが収束するまでは留まっていたいと思うようになった。
三ヶ月ごとのビザ更新のたびに「で、いつ帰るの?」と思っていた時と比べると、ずいぶんの心境の変化だ。

頭の中の北国とベトナムの揺れ動きの幅が狭まり、ベトナム寄りに落ち着いたように思う。

(まあビザ更新に失敗して三ヶ月後にすごすご日本へ帰る可能性もゼロじゃないんだけどね!)

■エピローグ 

ベトナムの路上に何もせず佇み、日本人観光客に「あの人は何をしているの?」と疑問をもたれる人たち、実はあれには種明かしがあって、多くはバイクの警備員だ。バイクの盗難が異常に多いベトナムでは、「店の前でバイクを見張り、見張り代をもらう」という職業があるのだ。

しかし、どう考えてもバイクの見張りなどをしている様子もなく、何もない路上でたたずんでいる人も、おなじぐらい多くいる。
実は彼らは禅僧なのかもしれない。
じっと佇んでいるのは、実は「『何もしない』をしている」のかもしれない。

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コロナ禍を味わいながら、ひょっとして「中世の人って、こんな感じで生きていたのかな」と思うことがある。

自分の人生が自分のコントロール下におけず、常に大いなる力に振り回されており、それを神と呼ぶ。
親の代から引き継いだ仕事を、子に渡す。世界は親の代から変わらなくて、親の言う通りにやることが是とされている。
進歩とか発展は、牛歩過ぎて可視化しにくいため、ほぼ無いことにされている。
今日も明日も同じことをする。

もし私がコロナが原因でビザ更新に失敗し、意に反して日本に帰ることになったら、多分、人生で一番の「大いなる力に振り回された経験」になるだろうなと思う。

「現代的」な自分にとって、それはほぼ初めての状況だ(今までは、「本気出したら自分でなんとかできたかもしれないけど、実力不足で出来なかった困難」しかなかった。でも今回は、いくら私が頑張っても国家権力には太刀打ちできないわけだ)。

しかしそのぐらい大いなる力じゃないと動かない人生のような気もするし、そのぐらい大いなる力にテコ入れしてほしいような、自分で動けることの限界を感じているような、不思議な心持である。神に祈る人というのはデフォルトでこんな気持ちなんだろうか。




渋澤怜(@RayShibusawa

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