音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 6/19

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飲み物を受け取ったところで背後から
「アヤメちゃん!」
と男の人の声がした。こそ泥のように心臓が飛び跳ねて、ジンジャーエールをこぼさぬようそろそろと振り返ると野良犬のようにばさばさの茶髪にTシャツ、インドのお坊さんのように複雑な布の巻き付け方で作られたすれたカラシ色の半端丈のズボンにビーチサンダルという、謎な格好をした男の人が立っていた。すきっ歯が煙草のヤニで茶色くなっている。
 いや違いますアヤノですと言うべきか、あなた誰ですかなんで私の名前知っているんですかと言うべきか悩んでいると男の人はらんらんと明るい表情になって
「どうよー!」
と後ろを振り返った。するとテーブルを囲んでお酒を飲んでいた四五人の男の人達が「いーねー!」とか「ひゅー!」とか拍手をした。
「……あの」
 私はもう逃げようとして半身をひるがえしていた。ビーサンの人からは嗅ぎ慣れぬ匂いがして一瞬変な薬かと思ったが多分よく古着屋で焚かれているお香の匂いだった。
「あーごめんね! びっくりしたよね。水原の妹さんでしょ、うちらお兄ちゃんと同じサークルの」
 ビーサンの人が言うと「どうもー」と言って皆がばらばらに会釈した。ということは皆大学生なのか。皆ビーサンの人とはテイストは違うものの不思議という点は一致した格好をしていて、揃って二十代後半か三十代に見える。煙で燻されたように皆土っぽい色の顔をしている。
「じゃー、すいませんでしたっ」
 ビーサンがへこへこと頭を下げて仲間の輪の中へ戻る。あまり気にしないようにして、さっさと帰ってしまおうと思いジンジャーエールをぐびぐびあおっていると向こうの声が聞こえて来た。
「な、可愛かっただろ?!」
「いやー驚いた上玉上玉」
「水原と血がつながってるとは思えん」
「じゃ、俺の勝ちだから」
「仕方ねえな」
「でも女子高生でこんなとこ一人で来てるなんて度胸あるな」
「よっぽど好きなんじゃないの」
「な、こっち呼んでくれたらもう一枚やるよ」
「えー佐々木には無理だろ」
 ぺたぺたぺた、とアニメのキャラが走る効果音のような間抜けなサンダルの音が私を追いかけて来た。
「ねえねえ、今日一人で来たの? いつも一人? 戦争花嫁好きなの? ちょっとこっち来ないこれあげるからさ」
 もはやビーサンの人ではなく『後ろ姿だけで美人かどうか当てるのが特技の佐々木』らしき人は、私に首を縦に振る時間しか与えず矢継ぎ早に質問すると、扇状に広げて持った五枚のドリンクチケットから一枚をトランプのように引き抜いた。私に差し出されたそれは、私のとは色が違う、お酒も頼めるものだった。
「い、いいです」
 帰ってしまえば良かったと後悔した。佐々木という人はアグレッシブに話しかけてくる割には目はひよひよと蝶でも探すように泳いでおり気弱に見える。
「あ、石黒さん!」
 私の背後に蝶を見つけたように声を上げた。現れたのは先ほどまでステージにいた戦争花嫁のギターだった。
「この子水原の妹なんですよ、ほら水原っているじゃないですか、あのフライングV使ってる一年、で、戦争花嫁大好きなんだって、今日もひとりで」
 ぺらぺら喋る佐々木の一言一言が私を剥いでむき出しにしていくようだった。膝の下からじゅわじゅわと炭酸のように飛び跳ねながら血液が昇ってきて頭に到達し、逃げろ、逃げなければ、と赤いサイレンを鳴らす。
「へえ、ひとりで来てくれてるなんて嬉しいよ。ありがとう」
 ステージの上での裂けた声とは違う、ていねいに発音されたギターの人の声が私のつむじに落ちた。高い所にある彼の目がきちんと私を見て話しかけてくれるのが分かった。でも私は彼の手より高くを見ることが出来なかった。さっきは遠くで気付かなかったけれど、彼の手の甲には猫に引っ掻かれたような傷が横一文字に走っており、そればかり見つめて返事も出来ずにいた。
「学術大附属らしいっすよ。頭いいんすねー」
「へー」
「しかもちょー可愛くないっすか」
「だ、黙って」
 私は石黒さんへか佐々木さんへかも分からず投げ捨てるようにそう言うと息を止めて逃げた。扉をくぐって受付もくぐってやっと外に出ると胸に押しつけたジンジャーエールが少しこぼれて制服を汚していた。一気に飲み干すと炭酸が喉につかえて死にそうになった。容れ物はそのあたりに捨てた。
 紺野がいない。紺野がいれば。紺野にいてほしかった。でも紺野は譜読みをとって私をひとりで行かせた。それは紺野の望む以上のものを望んだ自分へのバチだと思った。あんな人に声をかけられたのも。そんなことが無ければギターの人とも話さずに済んだ。自分の余剰な物質、可愛いとか女子高生とか誰だれの妹とか、によって彼を煩わせるのがたまらなく嫌だった。ただの知らない客で良かった。それなら制服を着ていかなければよかった。男を釣る気か、とか兄が言っていた。違う、でも紺野がいないのは私が失敗したせいだ。

とりあえず落ち着きたくて携帯の電源を入れると今度は兄からの着信とメールが来ていた。
『電話、つながらなかった。
 じいさんがキトク。
 うちら病院行くから携帯つながらなくなる。
 メール見たら第一病院に来て』
 こうこうと光る画面の白いところばかりが目について、その上を蛇のようにくねる黒い文字が何かの模様にしか見えず意味をなさなかった。ずっと見ていればくねくねと動いて別な意味になってくれないだろうか。でも十回読み直しても紛れも無く読んだ通りの意味にしかならなかった。
 第一病院はおじいさんが入院している病院で私も見舞いで何度か行っている。タクシーを呼びたかったがライヴ代で財布の殆どを使い果たしてしまったので、イライラしながらも電車で行くしかなかった。
 電車で確認してみるとメールが来たのは二十分前、つまりライヴハウスについて電源を切った直後だった。手から力が抜けて携帯が落ちそうになった。あの時母の着信にいらついて電源を切っていなければ、もっと早く病院に向かえたのだ。母の着信は喧嘩の続きではなくおじいさんの危篤を告げようとするものだったのだ。全部が全部悪い方にまわっている。ライヴに行ったことで。今タクシーに乗れないのもそのせいなのだ。
 息を切らしておじいさんの病室につくと誰もいず、看護師に既に集中治療室に移されたことを聞きそちらへ向かった。母と兄が、無人島に取り残された人のように放心した様子で廊下に立っていた。
 母は私を見とめるなりガツガツと近寄って来てビンタを張った。その音は一切ものが無い廊下でやけに威勢良く反射し、芝居がかって聞こえた。そこまでされるとは思っていなかった。
「人でなし……!」
 母はそう言った。一瞬異国の素敵なフルーツの名前のように聞こえた、でもそれはまともな日本語で母は確かにそう言った。その言葉の意味を細胞ひとつひとつに染み渡らせるように私はゆっくりと息を吐きだした。また、母がひとりで突っ走っていってしまったように感じた。頬をひりつかせる熱とは裏腹に私の心は冷めていく。しかし次の言葉を聞いて心臓に熱い釘が打ち込まれたようなショックが走った。
「さっきまでなら、喋れたのに……」
 母はベンチに座り込んでうなだれてしまった。さっきまで? ということは、もう喋れないのか? 集中治療室というだけで嫌な予感はしていた。すがるように兄を見ると
「今夜が山だって……」
と告げられた。
「そんな……」
 いつこうなるか分からないとは言われていた。でもあまりに急だった。お見舞いに行っても私のことを覚えていたりいなかったりのおじいさんに会うのはつらく、むなしく、覚えていないなら行く意味も無いと思ってしまい最近はあまり行っていなかった。濁流のようにおじいさんの思い出が流れ込む。
「あんたなんか……何考えてるんだか……! もう……顔も、見たくない」
 母は私に向けてそう言った。もはや聞き間違える余地など無かった。
 それが号砲だったように私は走り出した。白くて無機質で陸上コースのように長く続く廊下を走ると余計な汚れが速度で流れ落ちどんどん清潔になっていく気がした。今日はよく走る、走らされると思った。もう顔も見たくない。人でなし。そう、私は母を拒否して携帯の電源を切った、その前に喧嘩中の母を置いてライヴに行った、喧嘩は私の心無い言葉が原因だった、母からすればその通りだった。だから私は母に近づいてはいけない、実の父親を今にも失いそうな母に。
 でも私にとってだって、おじいさんは、大事な実のおじいさんなのだった。おじいさんに会いたかった。おじいさんと喋りたかった。集中治療室を離れれば離れるほど胸の筋を握られるように痛んだ。そこにいてもおじいさんに会えないとは分かっているのに。おじいさんはどこにいるんだろう? おじいさんが死んだら、私はおじいさんの秘密をどこへ持っていけばいいのだろう? おじいさんは、娘に人でなしと言われた孫を豪快に笑い飛ばしてくれないだろうか? 人でなしなら俺も負けねえ、と言って。
 病院の廊下を走りきると唐突に外界があらわれた。走る場所はもう無く、でも私はどこかに出かけなければならなかった。家には戻りたくない。紺野に会いたい――それは私がだめにしたのだった。ライヴハウスに行きたい――それはもう済んだことだった。音楽室でメトロノームを睨みながら何も考えずに練習し続けたい――引退しているし、夜中なので出来なかった。あらためて私の行動範囲なんて恐ろしく狭くて、お金も無い私は何処へも行けないのだと噛み締めるように悟った。
 そこでピカリと降って来たのがおじいさんの家に行く、という選択肢だった。電車でここから二駅のあの家はおばあさんも亡くなった今空き家だ。しかしおじいさんと私の約束が生きていれば、私はあの家に入れる。「綾乃がこの家に入りたくなった時にいつでも入れるようにしてあるからな」。まだ病院に入ったばかりで比較的元気だった時におじいさんがそう言っていた。まさに今がその時なのだと思い、電車に飛び乗りそこへ向かった。



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