あなたの言葉はぜんぶ遺書

私と彼は出会ってから一言も言葉を交わさずに結婚した。

いや、言葉も無いから「結婚」も無い。あるのは、彼の家に運び込まれた私の身体、荷物、そして私の腹の中のまだ名前のつかない得体のしれない何か。

初めて彼と目が合った時にはもう、溶けた、眼球が、言葉が、境目が。

まさに見境も無く私たちは愛し合った。

いや、言葉も無いから「愛」も無い。あるのは、衣食住。食欲、性欲、睡眠欲。すべて彼と共有しているそれら。

そう、私は、彼の名前を知らない。彼に名前はあるのだろうか? 彼の性別は知っている。そしてその性別が、私にとっての彼の名になる。だって、ほかに要らないから。

時が経つ。同じ場所に身を置いた時間が確信となって積み重なる。

いや、言葉が無いから「確信」も無い。「時」も無い。あるのは着実に膨らんでいく私の腹。

生まれるってなんだろう? と、自分の腹に声なき声で問いかける。

生まれてなくても、あるのにね。ここにね、居場所が、体積が。

死産だったらどうしよう? あるいは、もしかして全然予想と違うものがここに詰まっていたら? そうだな、大量の落ち葉と枝とか、そしたら私は森を育てよう。

生まれるってなんなの? と思いながら私はベッドの上でいきんでいた。

言葉にならぬ叫び声を、「痛い」にならない痛いを、「辛い」にならない辛いをいくつも宙に放った。彼はずっと手を握り締めて私を見つめてくれていたのだが、一晩中続く私の地獄の叫びがふっと途切れた一瞬、彼は私の腹に突っ伏して、うぉんうぉん泣き始めてしまった。

亡骸にすがる人のようだった。これから人が生まれるのに変だ。

そう思ったら私の叫びは変わった。一緒なのだ、今していることは、私たちが夜ごと交わした愛という言葉より確実な行為と。私のおなかがふくれたもととなる行為と。ちょっと苦しいけど、嬉しいのだ。

私たちがひとつになったのかみっつになったのかわからないけれど、あまりに眩しい白い光があふれて、私のおなかが急に軽くなった。しばらく目が開けられなかった。

でも目を開けても赤ん坊はどこにもいなかった。いや、どこにでもいた。生んだのは光だった。私が歓喜の叫びをあげると、それに呼応するかのように瞬いた。

私たちは当然、子どもに名前をつけなかった。私たちはその時呼びたいように子供を呼んだ。嬉しい時には嬉しさを、悲しい時は悲しみを、言葉ではなく息に、唇に、響きに、腹に込めて呼んだ。

子供は怒りの炎にも、穏やかな水にも、自由に駆け回る風にも、固く冷たい氷にもなった。彼と違って性別もわからなかったが、男の子だと思って呼べば男の子に、女の子だと思って呼べば女の子になった。

生まれてから一度も言葉を聞かせていない子どもは、私たちよりずっと繊細だった。目が無くても見え、耳が無くても聞き、姿が無くても心があった。

子どもが生まれてよかった。呼べばこたえる、呼ばれてこたえる。歌えば奏でる。奏でて歌う。子どもはギターやピアノや笛や琴に、嵐に、小鳥に、雷になって、私の声に寄り添い、奏でた。

詞の無い私の歌には、私のすべての感情が詰まっている。

そして私たちの繊細な子どもは、私たちの望みをすべて汲みとった。

ずっと前から私と彼はひとつになりたかったのに、いつまでたってもふたつでしかなかった。そんな私たちの、まさしくかすがいとして現れた子どもに、託す望みはひとつだった。


これは、遺書です。言葉のいいところは、今目の前にいない人のためにとっておけること。そして、今すぐ分からない人のために、とっておけること。

私たちの、父も、母も、死が近づいた時に分かるかもしれません。

死ぬってなんなの? 私たちを包む、朝日より眩しい子どもに声なき声で呼びかける。

いや、言葉がなければ「死ぬ」も「生きる」も無い。私たちはすべて現在形の、「今」しかない。だから今ある命を今燃やす、炎と光の束になって、すべての音楽を駆け抜ける風になって、すべての文字を、すべての絵画を、すべての書物を、人類の遺書にして、私たちの世界はひとつになる。

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