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消えたマチュピチュドリーム No.9

第九話です。去年定年退職した父(67)とマチュピチュに行く事になった独身長女(41)の私が今まで奮闘した記録になります。

そして、大昔の話ですが、第一話は以下になります。よろしければお先にご一読どうぞ。

ようやく全ての用意が整った1月にまさかのウイルスの報道が中国であり、そこから始まったこの騒動は数か月であっという間に世界を侵食してしまった。まだ1月の時点では、アメリカでもまだ比較的緩やかな報道だった気がする。私の住むロサンゼルスでも、報道率は全然高くはなかった。

では、ロサンゼルスでの感染者は?というと、初感染者が確認されたのは、1月26日で、武漢から帰国したオレンジ郡の50代の男性であると報じられた(全米では3人目のケース)。次に報じられた感染者は、1月31日で、そのケースもまた60代後半の武漢から帰国したサンタクララ郡の男性と報じられた。2月に入るとアメリカで9人目の感染者が、サンタクララ郡でまた発症した。この患者は女性とされていて、彼女も武漢市を訪れていた。感染発覚したのがサンタクララ郡という事もあって先に出た60代の感染者との接触の有無を調べたがこの二人には接触は無かったと報道された。同日に別の郡サンベニートで二人発症したが、この時点で初めて人から人に移ったケースであると発表された。

これを皮切りにカリフォルニア州の至る所で感染者が確認され、2月6日に初めての死者が発表された。2月25日には、全米一のチャイナタウンを有すサンフランシスコ市が非常事態宣言を出し、一気にカリフォルニア州内の危険度がこの頃から増していった。それでもまだロサンゼルスでは、ほとんど規制されることもなくウイルスが私たちの日常生活に侵食し始めているとは想像もつかなかった。誰もがこのウイルスの脅威をまだ信じずにいた気がする。


2月25日の時点では、まだ南米では感染者がゼロであくまでも、これはアジアとヨーロッパとアメリカだけの問題に見えていた。私も両親と連絡を取り合っていたが、お父さんは行く気満々だった。ただ、ロサンゼルスでは、少しずつ感染者が増え始めていて、この時点では中国と韓国から米国入国規制が敷かれていた。

そして次の日の2月26日にブラジルのサンパウロでまさかの第一感染者が発表された。61歳の男性はどうやらイタリアとスペインに渡航し、ヨーロッパから感染して帰国したのだった。するとその日を境に、爆発的に南米の果てまで侵食し始めた。アマゾンの先住民が感染したと言うのだ。全く理解できない。どうやってって?もう人を介してに決まっている。同じくして、世界の各国が日本人に対して入国規制を敷き始めたのもこの頃。この頃は、毎日外務省の安全ホームページでペルーが無いかを確認していた。今びっくりするが外務省が運営する安全ページを是非見てほしい。(ページ下に参照)日本人が渡航できない国の多さに愕然としてしまう。

この旅行に際して2月末から3月上旬は私も何度も両親と相談し合っていた。世界各地で感染者が倍増し、いつ日本人も入国制限されるか分からないアメリカに私は両親を呼ぶアイデアは良くないと判断し、3月12日にとうとう両親にこの旅行をキャンセルする旨を伝えた。半年程かかってほぼ30年ぶりの家族旅行だったのに本当に無念だった。涙が出る程悔しかった。

そんな私を横目に、3月16日とうとうロサンゼルスがロックダウンすることになった。それに続いてペルーでも感染者が日に日に増え始め、私たちの渡航日程の28日には、国境を封鎖してしまった。なんとペルー国内から出られない旅行者230人ほどが足止めとなっている事が発覚。本当に行ったらヤバかった。ギリギリ回避出来た。良くないけど良い決断だった。

以下が資料として訳したサイトになります。


今振り返ってみても、本当に早い時点で決断して本当に良かったと思う。

いやぁ、本当に胃が痛くなるような2020年の始まりだった。

そしていつかきっと両親をペルーに連れて行くぞ!その日を夢見て頑張っていこうと思う。

第9話終わり 最終章10章に続く。






最後まで一読ありがとうございました。