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5 引きこもる

娘が死んでしまう前は活動的だった私ですが、死の悲しみによるダメージは大きく、少し気づきを得たぐらいで元気が戻るわけではありませんでした。みるみる痩せていき、肉体は死を望んでいるかのようでしたが、下の娘二人がまだ小学生でしたし、残される人の痛みを知ってしまった私は、残された精神を振り絞って生きようしました。

そのために私がとった行動は、引きこもりです。絶望の底でもいいから、とりあえず息を続けよう。そして下の娘たちのためにも、息ができなくなるようなことは拒否しよう。いつの間にか痩せ細りヨレヨレになった体から残る力を振り絞って決意しました。

その決断は間違っていなかったと今断言できます。人により自分の癒し方はそれぞれだと思いますが、死のダメージで息をしてるのがギリギリの状態で、人と顔を合わせることすら苦痛に感じる時、引きこもりは辛うじて安らかに息を続けることができる私にとって最善の策だったと思います。

ただ、そんなギリギリの状態でもつきまとってくるのが、引きこもりというネガティブなイメージのある状態になることへの罪悪感という名の苦痛。なぜ人はこんなにも自分を苦しめたくなってしまうのでしょう。よくもまあそんな力が残っていたものだと思ってしまいますが、実は苦しめようと思ってるわけでもないのです。

それは、人間の本能が関わっています。恒常性(ホメオスタシス)といって、人間の肉体は人体の安全を保つため、自分の普通の状態から変化することを阻止しようとするようになっています。私の肉体の一部である脳は、いままで選択したことがなかった「ネガティブな状態になる」ことに危険を感じ、罪悪感という苦痛を与えて、阻止しようとしていたのです。

私は幸いその本能の仕組みを以前から知っていたので、脳を安心させてあげられるよう、先述の苦しみを解放する手順を使って、引きこもりを肯定してて行きました。複雑に絡み合った既存の思い込みを手放すのは少々手こずるものですが、引きこもっている私にはたくさんの時間があり、ゆっくりと確実に苦しみを解いていきました。

苦しいこと→①なぜ苦しい?→②自分の思い込み発見→③その思い込みの原因は?→④原因を手放す→⑤解放される。

①引きこもりに罪悪感がある。ネガティブなことだから。
②ネガティブは良くない。
③引きこもりが問題視されてるニュースを見て、引きこもりは社会にとって困った存在のように認識し、ネガティブなことだと思っていた。また人を困らせてはいけないと思っていた。
④私は引きこもりの誰かに迷惑をかけられたことはない。実際は社会の困った存在とは思えない。何も知らないのに、ニュースの印象操作につられてしまった自分が愚かだった。
⑤引きこもる自分を肯定する。

他人から見たら、少々強引かもしれませんが、そうでもしなければ生きていけないのなら、とりあえず、こじつけでもなんでもいいのです。ネガティブな思い込みをするくらいなら、ポジティブな思い込みをしてしまえばいいのです。どちらも思い込みに変わりはないのですから。

それに自分の命があってこその社会です。命がなければ社会生活などすることはないのです。自分が死んでしまう方が、家族にとってダメージが大きいのなら、引きこもりは生きるか死ぬかの瀬戸際の精神状態で生きている人には、自分だけでなく家族を助ける愛でもあると思います。

もちろん、ご家族の引きこもりに手を焼いているように見える方も世の中にはいるかもしれません。でもそれは「引きこもり」という状態が問題なのではなく、その引きこもりになるしかなかった原因が問題なのです。その原因が解決していない状態で、引きこもりでない状態にしても、本人を苦しめてしまうだけです。ご家族がそれをわかっていても、私がそうだったように、社会がそれを理解する力が足りていないのが現状だと思います。

私は、とりあえず引きこもりに対する罪悪感を捨てることには成功しました。その時できる最善のことは、引きこもることであると肯定できたのです。

でもまだこれではスッキリしてません。それはネガティブという言葉に対するマイナスなイメージが何か釈然としなかったのです。引きこもりは悪いことでネガティブなことと思っていたのですが、そもそもネガティブとは悪いことなのでしょうか?善悪とは何を基準にしているのでしょうか?

少し長くなってきたので、次のページに続けます。


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