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8 優しさをことわる

幾つかの気づきによって、めでたく引きこもりになった私は、絶望の中で少しずつ自分のことを大切に扱う練習を始めました。特に、自分のことに関しては、自分がどう感じて、どうしたいのかを必ず確認するようにしました。

絶望の外側の世界では、ほとんどのことを家族が代わりにやってくれていましたが、自分に関する事は自分の感覚で決めることを心がけたのです。他人軸の常識や人の評価を気にしないで、自分の気持ちを第一に決めるということです。

振り返ると、常識や世間の流行に流されていた私は、社会的には活躍しているように見えたかもしれませんが、他人軸に寄りかかっていただけでした。引きこもることでやっと、私は他人軸から自立して、自分を生きることを始めたと言えるのかもしれません。

外側の世界に影響されてしまい、自分を生きてるようで生きてなかった私は、引きこもりを皮切りに、自分の中心を感じながら、自分のためにあらゆることを決断できるようになっていきます。引きこもりの原因となった娘の死は、どんどん私を成長させてくれました。

ある日のこと、私が意思決定をしなくてはならないことがありました。亡き娘の中学校の時代のお友達がお母様を通してですが、子供達だけで弔問したいけれど、私の気持ちや都合はどうかと聞かれたのです。引きこもりなので、時間の都合はいくらでもつけられます。でもすぐには返事ができませんでした。

そのお友達は娘と一緒に生徒会をやっていた友人でした。同じ時期に今の地に引っ越してきた転校生同士で、ご近所さんでもあるお友達。お母様もとても素敵な方で、今もお世話になっています。その子一人がお母様といらしてくれるなら何も抵抗なかったと思うのですが、お友達同士連れ立ってくるというのを想像した時、私は胸が苦しくなってしまったのです。

以前の私だったら、そんな胸の痛みなど気づかないふりをして、「ありがとう!娘も喜ぶわ〜、ぜひみなさんで来てね!」なんてお返事していたかもしれません。でも私は自分に正直に生きる人になってしまっていたので、わずかながら感じた「娘は死んでるのに、この子たちは生きてていいな」という嫉妬のような気持ちをごまかすことができませんでした。

その頃は制服姿を想像するだけで胸がキューっと痛むような状態です。お友達に来てもらってもどうしたらいいのだろう。おもてなしできるできないの問題ではなく、自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。友達としてお線香をあげたい気持ちや、大切に思ってくれる優しい気持ちは、とても嬉しいですし、受け取りたい気持ちも、娘との時間を作ってあげたい気持ちもあるのです。でも純粋に喜ぶ気持ちだけでない自分がいて、そんな自分を見られるのも嫌な自分がいたのです。

「無理だ、断りたい。」かすかに私の心の声が聞こえました。でも頭の中では自分の心の声を否定する別の声がします。「せっかく来てくれるって言ってるのに、断っていいの?」「優しい気持ちを無駄にして申し訳ないよね?」「お友達だって娘とお話ししたいのだから邪魔しちゃいけない。」・・・もっともらしい言葉は、私の断りたい気持ちを必死に止めようとしていました。

でも私は勇気を振り絞って、いや正確には投げやりに、もうどうにでもなれという気持ちで、心の声を優先にしました。嫌なものは嫌なのです。むしろ無理して迎え入れた方が、相手に対して失礼です。嘘の笑顔に、嘘の言葉では、せっかくの優しさを雑に扱っているようなもの。私は周りの人を信頼して私を大事にすると決めたのですから、その意思を貫こうとしました。

そして結局、お母様を通して、正直な気持ちをお伝えして訪問をお断りしました。「申し訳ないのだけど、みんなが生きていることが羨ましくて、苦しいの。お気持ちだけ頂戴します。ありがとうって伝えてね。」

すると、そのお母様は「そうだよね。本心を話してくれてありがとう。苦しいことしなくていいんだよ。大丈夫。子供たちには言っておくね。」すんなりと爽やかなお返事をくれました。善意も優しさも断って大丈夫だった。断ってよかった。たぶん初めての経験でした。

優しさや善意は受け取るもの、受け取らなくてはならないものだと思っていたと思います。断ってはいけないと思うからこそ、断らなかった時に起こる現実を創造して、胸が苦しくなったのです。はじめから断ることを自分に許していれば、胸の痛みを感じる暇などなかったのです。私は実はその「断っては申し訳ない」という思い込みに苦しんでいたのです。

またこの解放メソッドを使ってみます(勝手に命名してみた)

苦しいこと→①なぜ苦しい?→②自分の思い込み発見→③その思い込みの原因は?→④原因を手放す→⑤解放される。

お友達の弔問が苦しい。
①お友達が子供達だけで弔問に来ることが嫌だから。
②優しさや恩義を無駄にしてはいけないと思っている。
③誰かにそう教え込まれたのだと思う。そのまま信じてしまった。
④誰かの意見を鵜呑みにして採用する必要はない。
⑤優しさも断ることができ、もっと大きな優しさを受けとれるようになる。

それにしても、なぜ「優しさを断ってはいけない」なんて思い込みをしていたのでしょう。逆の立場だったら全く構わないことです。もしも私の優しさが苦しめることになるなら、遠慮なく断ってほしい。世の中のほとんどの人はそう思うはずです。だから、自分だって断っていいのです。

そもそも断ってはいけない優しさなど、本当の優しさではありません。優しくしてあげたのに、断られたと拗ねるような優しさは、本当の優しさではなく承認欲求の偽善です。本気で相手に優しくしたいと思ったら、相手がしたいようにさせてあげることこそ優しさだと思います。

もしも優しさを断って不機嫌になるような人がいたとしたら、付き合う価値などないかなと今なら思ってしまいます。でもあの時はまだ、常識という他人軸の洗脳から完全に解放されていないので、娘の死の絶望の底で生きるか死ぬかの瀬戸際にいなければ、気が付けなかったことだと思います。死の悲しみは、つくづく愛だなと思います。

そして、今回の私のように、私が自分の気持ちを大事にして、せっかくの優しさを断ってみることは、相手も自分も最高に幸せにしてくれるのです。相手の人は、私が一番喜ぶ優しさを、さらにプレゼントすることができるし、私は嘘偽りない心からの感謝の言葉を返すことができて、お互いにとても満足する愛のやりとりとなるのです。とても素敵なことですよね。

いろいろな気づきに出会う絶望の底は、次第に息苦しさがなくなってきました。自分の心に従っていくだけで、生きづらさはどんどん消えていきます。生き辛さの原因は、自分の心をなくし、自分の心の声がわからず、どこに進めばいいかを外側の情報に頼っているからなのではないかと、私は経験から学んでいきました。

つづく

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