見出し画像

真実の世界へ、ようこそ

哲学者が買いた面白い本があるので、紹介したい。
そしてそれに付け加えたい事がある。

『父が息子に語る壮大かつ圧倒的に面白い哲学の書』

著者はスコット・ハーショヴィッツ
アメリカ在住、ミシガン大学の法学および哲学教授

その中から、二箇所抜粋する。

【・・・神学的な問題を提起する。シミュレーション仮説が正しければ、ほとんどの世界にはそれぞれの創造主(その世界を設計したエンジニアたち)がいることになる。その創造主たちは、シミュレーション世界の住人にとっては全能であり全知だ。彼らは神なのだろうか?
それは形而上学的な問題を提起する。もし創造主たちがシミュレーション世界の運命を支配しているなら、私たちは自由意志を持っていると言えるのだろうか?私たちが彼らの目的のためだけに存在し、彼らが私たちを必要とするかぎりにおいてのみ存在を許されているとするなら、私たちはある意味で奴隷のような存在ではないだろうか? P358 】

私たちは、この世界が何者かによって創られたと考える時、どうしても神と呼ばれるような絶対的な存在を置かずには居られない。
私たち自身にそのような能力があるとは到底思えないからだ。
真実は私たちの一つの心で造り出した物語の映像である。
個々に見る就寝時の夢のグレードアップ版とでも言うべきか。
決して神の采配で起こっているのではない。
どのような操作が起こっているのか分からないが、それをそれぞれの分裂した心で体験しているらしい。

自分たちで造り出したという真理を受け入れれば、自由意志が無いわけがない。
造り出している映像を見ないと選択するのは、私たちの意志以外ないからだ。
(大まかに言ってこの選択の事を、奇跡のコースでは赦しという)

しかし意識していようがいまいが、この世界の現象を神などの絶対的な存在による創造物だと信じて疑わない以上、行動や思考に自由意志は働かない。
進んでいく台本どおりの現象を見ていることしかできないのだから。
だれが創造(想像?)したのか正しく知らないと、自由意志も機能しないし、簡単に巻き込まれて、奴隷にもなり得るということだ。

そしてもう一つ、目次もページ数も分からず申し訳ないが、確か最後の方の章だったと思う。
著者と幼い息子の会話である。

【 私たちは歩きながら夢の懐疑のゲームをしていた。レックス(息子)が自分はいま夢を見ているのではないことを証明し、私がそれを否定するという遊びだ。
レックスはこう言った。
「もし夢なら、二人で話してるってことは、同じ夢を見てることになるよね。パパとぼくが同じ夢を見てるなんて、変じゃない?」
「確かに変だな。でも、もしパパが現実でないとしたらどうかな?レックスの夢の中に出てくる登場人物だったら、二人で話もできるんじゃない?」
それは彼の小さな心に衝撃を与えたようだ。
飲み込むのに少し時間がかかった。
レックスはその考えを広げて、こんな問いを返した。
「じゃあ、友だちも夢の中に出てくるだけなの?」
「そうなるね。」
家に近づくと、帰宅したジュリー(レックスの母親)の姿が見えた。
レックスは母親のほうを指し示しながらたずねた。
「じゃあママは?」
「ママもレックスの夢に出てくるだけの登場人物かもしれないよ。」
するとレックスは顔を曇らせ、小さな声で言った。
「だったら、目を覚ましたくない。」】

この世界の現象は夢のようなものなので、上記で繰り広げられる会話は全くもって正しい。
さすが有名な哲学者らしく、幼い息子との遊びが高尚だ。

本当に起こっている事は脳が理解することはないと思うので、ここからわたしの考察(想像も)がかなり入る。

自分が見ている現実と言われる映像(夢)に、友だちの肉体が出演している。
そこには友だちの心があるようで実際はない。
心があるように見えるのは、この世の構造があまりにも巧妙だからだ。
人間の肉体はただの映像であり、AIと何ら変わらない。
生身と言われる人間の素振りがAIの素振りと区別されるように現されている。
そのうち区別できないぐらい技術が進歩するだろう。
それもすべて筋書き通りの出来事である。

そして、友だちもおそらく、友だちの目線で同じシチュエーションの同じ映像を観て、その時間を共有しているはずだ。
なぜなら、真理では一つの心だからだ。
分裂した個々の心として体験している現象なのだ。

レックスは母親が実体のない夢だということが受け入れられない。
母親を絶対的な愛を注いでくれる存在と疑っていないようだ。
なのでこの世界から離れたい(目を覚ましたい)とは思えない。

しかし、神の愛はこの世の幸福とは桁違いのものだったら?
この世の幸運など一瞬のうちに消滅させてしまう無条件の愛があると知ったら?
私たちはその愛に真っ直ぐ飛び込んでいけるだろうか。

きっと今の私たちの思考では、親や子供を見捨てることへの罪悪感を、超自我によって抱かされ、いつまでもこの世界に留まることを選択せざるを得ないだろう。
それが親子という条件付きの愛情であるとしても、この世界では最上級な愛情には変わりない。
そして、たとえ毒親と言われる肉親との関わりしかなかったとしても、その代わりの愛情をこの世界で探し続ける。

神の愛を知る啓示のような経験をしない限り、人の幸せをこの世界の価値観のものさしで計るしかないのだから。

この本を読むと、真実に向き合っているように見えるのは哲学だけのような気がする。
この世界が幻想だと言いながら、結局は別の幻想の世界を作っているにすぎないスピリチュアルや宗教。
真実を突き詰めようと幻想の罠に嵌まっていく科学。
それもまた、決定している映像(ストーリー、台本)なのだろうけど。

ひとつ、著者に忠告したいことがある。
幼い息子とこの世界が夢だとか真実を追求することは間違ってはいないが、すべてを闇雲に知ろうとするのは危険が伴う。
そこには、人がこの世に逃げ続けている理由である罪悪感の根源がある。
戦慄を覚えるほどの人の本性がそこにあるのだ。
コースでは、一人では決して見ないようにと、聖霊を伴走者に推奨している。

真理を受け入れるのは余程の覚悟が必要な気もするが、それに気づく時期は、用意された台本通りに進んでいるだけだから、心配する必要はない。

とは言えわたし自身がこの真理に出会った時、どう受け止めればいいのか戸惑った事も事実だ。

一人で納得する自信がなく、ある人に確かめた記憶がある。

「奇跡のコースには、この世界が幻想であると、本当に書いてあるのですか?」

その人は静かに頷いた。
そして、「こちらの世界に、ようこそ。」と、わたしの投影として語った。

この世界には、この世界を幻想と受け入れて生きている一定数の人がいたらしい。
わたしはその時、その仲間入りをしたというわけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?