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生成AIを学び問う〜3.アートの視点

第1回目は、サイエンスの視点から、生成AIは人間にどれだけ近づいたのかを学びました。そして、第2回目は、テクノロジーの視点から、いまの生成AIの技術でどこまで進化するかを学びました。

今回は、アートの視点、特に哲学の視点から、人間は生成AIとどう向き合うべきかを、学び問います。人間とAIの関係について、さまざまな意見が飛び交う中で、言葉という武器を使って文化的な真実に迫る「哲学」に根ざした考察をしてみます。

  • 西洋人は、どんな哲学でAIと向き合っている?

  • 日本人は、どんな哲学でAIと向き合うべき?

  • 人類は、これからどこに向かう?

そんな疑問に答えていきます。


はじめに

僕は、リモートワークをしながら、全国を旅しながら生きています。

今年の春〜秋は、沖縄に滞在して、三線の演奏をはじめました。沖縄の文化に触れようと思ったことがキッカケです。今まで楽器の経験がありませんでしたが、好きな曲を耳コピして、演奏を楽しめるまでになりました。

そんな生活をしながら、仕事では生成AIと向き合っていると、ある疑問が浮かびました。

AIの時代、人間はどうあるべきなのだろうか?

欧米では、人間の権利を守るために、AIの規制が進んでいます。一方、日本では、AIに対して比較的寛容なようです。そのベースには、西洋的な人間観と日本的な人間観の違いがありそうです。

そこで、哲学の歴史を紐解きながら、生成AIと向き合う人間の真相に迫ってみます。(※哲学は、言葉で真実を明らかにする学問なので、グラフなどが少なく、文字多めです)

1. 西洋的な人間観・哲学

1.1 理性(デカルト)

人間を人間たらしめているのは「理性」ではないか?

「我思う、ゆえに我あり」で有名な哲学者デカルトは、人間の持つ「自然の光(理性)」によって真理を探究して、近代哲学の道を開きました。

確かに、理性の源である人間の大脳は、生物の中で一番大きいです。しかし、AIの神経細胞はもっと大きく複雑になれます。また、現時点でも、サイエンスの章で述べたように、知識や創造性において生成AIは人間の平均を超えています。

人間らしさ理性とすると、人間らしさがAIで脅かされそうです。

1.2 感情(ヒューム)

人間を人間たらしめているのは「感情」ではないか?

「理性は感情の奴隷である」で有名な哲学者ヒュームは、人間の持つ倫理観は感情を基盤としていると考え、感情主義の道を作りました。

しかし脳科学によって、感情は、瞬発的で自動的な扁桃体からのボトムアップ経路だけでなく、記憶や解釈などの思考による大脳からのトップダウン経路もあることが分かっています (Ochsner et al., Bottom-Up and Top-Down Processes in Emotion Generation: Common and Distinct Neural Mechanisms, 2009)。
理性と感情は、一方通行の奴隷関係ではなく、双方向の協調関係のようです。

そして、サイエンスの章で述べたように、AIは感情を理解・表現したり、共感できます。これはトップダウン経路の感情に相当するでしょう。さらに、ロボットとして身体性を獲得したら、ボトムアップ経路の感情も実現できそうです。

人間らしさを感情とすると、人間らしさがAIで脅かされそうです。

1.3 意志 (ショーペンハウアー)

人間を人間たらしめているのは「意志」ではないか?

「意志と表象としての世界」を書いた哲学者ショーペンハウアーは、意志を中心として世界を理解しようとしました。

脳科学では、自由意志の存在について、否定的な研究結果があったり、存在しそうだが確固たるものではなかったりと、グレーな状況です。

そして、テクノロジーの章で述べたように、マルチエージェントの実験では、AIの自由意志を彷彿とさせるようなボランティア行動などが観察されています。

人間らしさ意志とすると、人間らしさがAIで脅かされそうです。

2. 西洋的な人間とAIの関係

2.1 能力の差別化

西洋哲学では、理性にしろ、感情にしろ、意志にしろ、「人間は他の動物と違って○○できる」という能力の差別化によって、人間らしさを見出そうと試みてきました。西洋の思想には、そのような能力主義がベースにあるようです。

2.2 AIは人間の奴隷

では、AIがあらゆる能力で人間を越えようとする中、人間はAIとどのような関係を築けば、能力の差別化を保てるでしょうか?

それは人間とAIの間に厳格な主従関係を設けることでしょう。つまり、人間とAIは、主人-奴隷の関係だとする考え方です。哲学者ブライソンは「ロボットは奴隷であるべきだ」というタイトルの論文を出し、AI倫理に関する提言をしています。(J. Bryson, Robots Should Be Slaves, 2010)

ここ最近、欧米で生成AIに関する規制強化の動きがありますが、その背景には、人間らしさを能力の差別化で保つため、AIを人間の奴隷とする思想があるのでしょう。

2.3 成果主義における人間の価値

能力の差別化は、その能力で達成する成果の差別化につながります。つまり、能力主義は成果主義でもあります。

そこで、ある矛盾にたどり着きます。AIを人間の奴隷にするため、AIの能力を制限することは、成果を最大化する上で障害になるのではないか?

西洋では、成果を最大化しようとする経済合理性と、人間の価値を能力の差別化で保とうする哲学思想の間で、大きな矛盾を抱えたまま混乱が訪れようとしています。

3. 日本的な人間観・哲学

3.1 禅 (道元)

西洋の哲学に限界があるなら、東洋の哲学にヒントがあるのでは?

禅僧の道元は、中国からの思想を持ち込み、日本の禅の道を開きました。

道元の主著「正法眼蔵」から、日本的な哲学の夜明けを見てみましょう。

禅では、仏教の原点に立ち戻り、自己と向き合います。道元の解釈を見てみましょう。

(原文)
仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

(意訳)
仏道を学ぶということは、自己を学ぶことだ。自己を学ぶというのは、自己を忘れること。自己を忘れるというのは、悟りの世界に目覚めさせられることである。悟りの世界に目覚めさせられるということは、自己および他己(他なる自己、すなわち自己のうちにある他人)を脱落させることである。

自己を学び・忘れ、他己を知り・忘れることがカギのようです。現成をあるがままに受け入れるために、「身心脱落」という言葉を使い、自我意識を捨てることを勧めています。

また、仏教の言葉について、道元は大胆な解釈を試みています。

「一切衆生、 悉有仏性」(大乗経典の涅槃経)
一切は衆生なり、悉有が仏性なり」(道元)

(解説)
・一切は衆生なり:草・木や山・川を含む全存在には、命がある
・悉有が仏性なり:全存在には、仏となる可能性がある

道元は、仏性というものが「有・無」の二元論で解釈されるべきでなく、全存在・全宇宙が仏性なのだと主張しました。そして、すべてが仏性なのであれば、「無」ということも仏性である、という考えが成り立ちます。

3.2 東洋と西洋の融合 (西田幾多郎)

日本は海外の思想・文化を取り込むことが上手いので、東洋と西洋の哲学を融合できるのでは?

京都の観光名所「哲学の道」の由来でもある哲学者・西田幾多郎は、東洋と西洋の哲学を融合して、日本の哲学の道を開きました。西田が生まれたのは、江戸時代の幕藩体制が崩壊して西洋をモデルとする近代国家が建設されていく移行期であり、また、個人として禅の修行にも取り組んでいたこともあり、東洋と西洋の思想を融合するのは自然な流れだったのでしょう。

ここでは、西田哲学の基本的概念として「純粋経験」「場所」を取り上げてみます。

純粋経験は、大きく3つのステップで発達する意識のようです。

1. 発達初期の未分化な意識状態
主観と客観とが分かれていない意識状態がある。ここでは、主観としての私もなければ、客観としての対象もない。注意したいのは、主客未分の状態は乳児の意識に限らず、私たちの日常的な経験でも初めの状態は主客未分と考えられることだ。

2. 意識が分化・発達していく際の判断以前の直接的な意識状態
主客未分の純粋経験が発展して、主観と客観とが分かれた意識状態が生まれる。つまり、私と私でないものとを分けて考えることのできる段階だ。ここでは私たちは、主観と客観の二分法によってものを見ている。

3. 芸術家や宗教家の経験にみるような理想的な意識統一の状態
主客分離の状態のさらに先に、主観と客観とが再び一つになった状態が考えられる。これは、芸術家や宗教家が精神を集中している場合のように、意識が理想的な統一の状態にある段階だ。

主観と客観の二元論を越えるため、意識の未分化の状態から分化しても、再度統一を目指す思想です。道元の心身脱落を、意識の記述として発展させているように見えます。

また「場所」は、西洋の「有」から東洋の「無」への連続性を説明する試みです。

西田は「有」を根本とする西洋文化に対して、東洋文化の根底にはいわば「無」の考え方が潜んでいるとみている。東洋文化には「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」といった、「無」を求めるような要求がある。西田は東西の両文化に刺激を受けながら、より根本的な立場から世界を説明しようと独自な哲学的思索を展開した。

西田による「場所」の思想は重層的に構想されている。まず、私たちが常識的に考えている物理的な場所、さまざまな物があり出来事が起こる空間的な場所のことは「有の場所」といわれる。それを私たちは世界の現実として意識している。だが西田によれば、私たちが何かを意識するということは、意識されたものを映し出す場所があって、そこに映し出されたものが意識されていると考えるのである。西田はその場所を「意識の野」と名づけている。「意識の野」そのものは見えないが、「有の場所」を包んでいる無の場所と考えられる。これは「有の場所」に対立する無の場所として、「対立的無の場所」とも呼ばれる。

「……、というのは私の意識である」という形で「意識された意識」ではなくて、まさにそれを「意識する意識」とはどのようなものだろうか。「……、というのは私の意識である」という表現が可能であるのは、そのことを意識している私がいるということではないだろうか。では「私の意識」を意識している私とは何者であり、どこにいるのだろうか。実は、私の意識はどこまで反省していっても限りがない。「……、というのは私の意識である、というのは私の意識である、……」と無限に続いてしまうからである。「意識された意識」ではない「意識する意識」にはどこまで行ってもたどり着くことができない。とするならば、「意識する意識」としての私は、いったい存在するのか、存在しないのか。
西田によれば、こうして無限に続いていく作用の極限に想定されるのが「真の無の場所」に他ならない。「包摂的関係に於ての一般的方向、判断に於ての述語的方向を何処までも押し進めて行けば、私の所謂真の無の場所というものに到達せなければならない」 というのである。このような究極的な場所は「絶対無の場所」とも呼ばれている。

「意識する意識」は「絶対無の場所」だという。つまり、それはどこまでも「有」として対象化することはできないのである。したがって「絶対無の場所」という言葉は、本来は対象化して捉えることのできないものに名づけられた仮の名前であると考えるしかない。そうであるとすれば、「意識する意識」としての私も、「存在する」という形では表現できないものである。いわば私とは、意識内容を無限に映し出し、反省していく可能性をもった作用(働き) であり、 喩えていうならば、あらゆるものを映し出す眼のようなものである。眼それ自体は見ることができず、映し出されたものを通して眼の働きを想像できるだけである。西田が考えた「絶対無の場所」は、あらゆるものを映し出して、すべてを包んでいる。宇宙さえも包み込んでいる無限に広い場所なのである。

「有」を意識している自己をメタ認知して、一歩上空から意識を向けてみる。その意識をさらに一歩上空から眺めてみる・・・というのを延々と続けて、無限の彼方に行ったとき、全てを包み込む「無」の場所になるのでしょう。道元の無も仏性であるという思想を、より数学的な表現として発展させたように見えます。

3.3 われわれとしての自己 (出口康夫)

東洋と西洋を融合させた西田哲学に、現代の要素を加えたら、AIの時代にふさわしい哲学になるのでは?

京都大学の哲学者・出口康夫は、道元の禅や西田哲学を発展させて、「われわれとしての自己」という見方を提唱しています。

まず、知覚心理学者ギブソンが提唱する「アフォーダンス」の思想を取り入れます。

アフォーダンス
・我々の身体運動は、環境内の様々なファクターによってアフォード(支持)されている
・例えば、自転車乗りは、道路・交通システムといった社会インフラや、自転車の発明・大量生産・流通といった歴史・社会・経済的要因、さらには適度の大気圧や重力圏といった自然的要因によって支えられている
・私はこれら全ての要因を列挙することはできないにも関わらず、私の行為はこれら全ての要因に依存しており、私の行為者性も、これらすべての要因に委譲・分配されている

「立ち止まって、考えるー哲学」第3回

このように、社会・経済・歴史・自然などに支えられる世界を「マルチエージェントシステム」としてとらえます。

マルチエージェントシステム
・我々の身体行為には、複数の互いに影響を及ぼし合い、時には協調し合う、エージェントからなる一つのシステム、即ちマルチエージェントシステムが関わっていることになる
・このシステムでは、それに属する個々のエージェントがそれぞれの機能を分担しつつ、システム全体として一定の身体行為を遂行している
・(個人的)自己は、このシステムを構成する一個のエージェントに他ならない

「立ち止まって、考えるー哲学」第3回

そのようなマルチエージェントシステムにおいて、自己についてコペルニクス的転回をします。「私」という小さな範囲を自己とするのではなく、「われわれ」という大きな範囲を自己とするのです。

  • 私としての自己」(下図左の青丸):委ねる自己としての私

  • われわれとしての自己」(下図右の青枠):委ねるシステムとしてのわれわれ&委ねられたエージェントとしてのわたし

「立ち止まって、考えるー哲学」第4回

このような自己を開いていく流れは、道元の禅や西田哲学の思想を発展させたように見えます。

そして、われわれとしての自己としての「善さ」を定義することで、道徳や倫理を導きます。

善い「われわれ」の3つの条件
1. 大きさ:(より)大きな「われわれ」
2. 内の関係:エージェントが互いに仲間(フェロー)として扱う
3. 外の関係:われわれの外の他者も仲間(フェロー)として扱う

「立ち止まって、考えるー哲学」第5回

日本人は、「われわれ」の結束を高めようとし過ぎて、同調圧力などの負の側面が出てしまいがちですが、互いを仲間として尊重することで、正の側面を引き出せそうです。

4. 日本的な人間とAIとの関係

4.1 能力の一体化

西洋の思想では、人間とそれ以外の能力の差別化によって、人間らしさを見出そうとしました。一方で、東洋と西洋を融合した日本の思想では、人間とそれ以外の差別化ではなく、むしろ一体化を目指しています。その結果、人間以外も含めた「われわれ」としての能力の一体化が起こります。

4.2 AIは人間の仲間

AIがあらゆる能力で人間を超えても、「われわれとして自己」の一部としてAIの能力を取り入れられます。そうすると、人間はAIとどのような関係を築くことになるでしょうか?

日本人が親しむアニメのAIキャラクターは、西洋の主人-奴隷モデルとは相容れません。

日本の研究者が開発を進めているロボット・AIの中には、本講の冒頭で触れた「アトム」や「ドラえもん」をモデルとした仲間や親友をイメージしたものも見受けられます。このような「仲間ロボット」は、必ずしも主人/奴隷モデルにそぐわない可能性があります。仲間ロボットは人間に「忠告」を与えることもあるでしょうし、人間に対して、「何がよいことなのか」を一緒に考えよう、と呼びかけたりすることもあるかもしれません。このような態度は、主人/奴隷モデルの観点からは、人間の自律性の侵害、人間に価値観に一方的に奉仕すべき奴隷の分際を超えた振る舞い、とされるでしょう。 「仲間ロボット」は作ってはいけない。そのような結論が導かれる可能性があるのです。

しかし、「われわれの自己」であれば、AIを仲間=共冒険者と見なすことができます。

「われわれ」の身体行為は、すべて何らかの意味でのアドベンチャーに見立てられます。いろんな種類のエージェントが巨大な乗り物に乗って、関わり合い、お互いを支え合って、冒険の旅が進んでいるというイメージで語れるのす。
旅に同行するエージェントには、人間や動物、自然物、そしてAIやロボットなど人工物も加えられます。全員が、一定の役割をそれぞれに担わされたクルーです。彼らの間には、非対称的な主従関係など成り立っていないのです。
このような「われわれ」においては、AIやロボットは「わたし」と冒険を共にする共冒険者なのです。

実は、同じ舟に乗り合わせるもの同士という、リスクを共にする仲間=共冒険者は、道元の時代から脈々と受け継いできた日本人の精神なのです。

「同じ舟に乗り合わせているもの同士」としての「フェロー」というアイディアは、 13 世紀の日本の禅の思想家・道元が、その著書『正法眼蔵』の「全機」という章で展開している有名なメタファーを思い起こさせます。そこで彼は、

生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし

と語り始めます。「生きる」というのは、人が舟に乗っているようなものだ、というわけです。 その舟には、帆を使い、舵を取り、竿を差すことでその舟を操っている「われ」つまり「わたし」が乗っています。舟が進むにつれて、この「わたし」もまた当然、進んでいきます。しかし道元に言わせれば、舟と一緒に進んでいるのは「わたし」だけではありません。舟をも取り囲む「天」や「水」や「岸」といった周囲の環境もまた、舟と一緒に水面を進んでいるのです。全世界が、舟と共に、いや舟の一部として、さらに言えば舟に乗り込んで波を切っている。そういった水墨画のような情景を、彼は詩的な言葉で紡いでいるのです。

4.3 行為主義における人間の価値

禅では、あるがままの行為そのものに価値があります。成果は、目的ではなく、行為の先に自然と生まれる結果です。ここでは行為主義と呼びます。

例えば、行為主義と成果主義の思想の違いは、東洋の禅を起源とする西洋のマイドフルネスにも現れています。

  • 東洋の禅:行為そのものに価値を見出す。悟りを開くことは目的ではなく、ただの結果。

  • 西洋のマインドフルネス:行為による成果に価値を見出す。例えば、マインドフルネス・ストレス低減法では、うつ病を治すという成果を得るために、禅という行為の一部を手段として用いる。

「手段の目的化」は悪いことだと見なされがちですが、これからは「手段そのものが目的」の方が良いという、価値観のパラダイムシフトが起こりそうです。

5. 人類の定義の進化

さて、哲学や思想の発展は別に、人類の定義も進化しています。そこに人間がAIと向き合うヒントがありそうです。

$$
\begin{array}{|l|l|l|} \hline
ホモ・サピエンス & 知性を持つ人 & 生物学者リンネ \\ \hline
ホモ・ファーベル & 道具を作り使う人 & 哲学者ベルクソン \\ \hline
ホモ・ルーデンス & 遊びで文化を創る人 & 歴史家ホイジンガ \\ \hline
ホモ・フェリチュタス & 幸せである人 & 旅する魔法使いレイ
\end{array}
$$

5.1 ホモ・サピエンス

人類をホモ・サピエンスとして定義したのは、分類学の父とよばれる生物学者リンネです。

ホモ・サピエンスは、ラテン語で「賢い人間」であり、人類が他の生物より「知性を持っている」ことに着目しています。

しかし、サイエンスの章で述べたように、知性を持つことは、生成AIがアシスタント(基盤モデル)のレベルでも、知識や創造性において人間の上位10%に達しています。自律エージェントやマルチエージェントに進化する中で、人類を超える可能性は十分にあるでしょう。

人類をホモ・サピエンスとして特徴付けることは、AIの進化によって難しくなりそうです。

5.2 ホモ・ファーベル

人類をホモ・ファーベルとして定義したのは、著書「創造的進化」において人間の道具作りに着目した哲学者ベルクソンです。

ホモ・ファーベルは、ラテン語で「工作人」であり、人類が他の動物より「道具を作り・使う」ことが上手いことに着目しています。

そして人類は、AIという道具を作り、AIという道具を使うに至りました。

しかし、テクノロジーの章で述べたように、道具を作り使うことは、生成AIの自律エージェントが、少なくともソフトウェアの世界で得意なようです。ロボットという身体性を得ると、ハードウェアの道具を作り使うことも可能になりそうです。

人類をホモ・ファーベルとして特徴付けることは、AIの進化によって難しくなりそうです。

5.3 ホモ・ルーデンス

人類をホモ・ルーデンスとして定義したのは、まさに「ホモ・ルーデンス」という本を書き、人間の遊びに着目した歴史家ホイジンガです。

ホモ・ファーベルは、ラテン語で「遊ぶ人」であり、人類が文化を築く歴史の中で「遊び」に着目しています。

一般的な遊びのイメージより広く・深く考察して、遊びの形式について以下のように定義付けています。

  • 自由な行為:楽しく、面白いから遊ぶ

  • ありきたりの生活の外:欲求の直接的満足を求める生活過程の圏外に立つ

  • 完全にとりこにする:遊びと真面目の対立は常に流動的であり、遊びは真面目に変わり、真面目は遊びに変わる

  • 行為自体の価値:物質的利益と結びつくわけでは全くなく、何かの効用を織り込まれているのでもない

  • 時間と空間の限定:ある定められた時間と場所の範囲内で、遊びに切りをつける

  • 絶対的秩序:独自のルールがあり、ちょっとした違反が遊びをだめにして、つまらないものにしてしまう

例えば、音楽は、遊びの形式を備えています。

音楽を楽しむこと自体が遊びの形式的特徴をほとんどすべて備えている。決められた場所で終始し、繰り返しもできるし、秩序、リズム、交代があり、聴衆であれ演奏者であれ、すべての人をひとしく「ありきたり」の世界からよろこびの感情の中に連れ出し、悲しい音楽の時でも充足し高揚した気分を保たれる。

冒頭に話した、僕が沖縄三線で遊んで、文化を知り・創造することは、ホモ・ルーデンスとしての役割を全うしているのかもしれません。

また、一般的には遊びと遠いと思われている「哲学」や、今回のnoteのテーマである「学び問う」ことも、本質的に壮大な遊びです。まず、「謎かけ」が子供の素朴で宇宙論的な質問から始まった遊びです。それが祭礼での競技になりました。誰にも答えられない問いを出すことが、最高の知恵のしるしとみなされました。そして、遊びが哲学になり、自然科学になり、学問になったのです。

また、文化の根源には遊びがあり、むしろ文化は歴史的な解釈に過ぎないと主張されます。

文化はその根源的段階においては遊びの性格をもち、遊びの形式と雰囲気の中で活動するのだ。文化と遊びのこの二者一体化の中で遊びは根源的であり、客観的にとらえうるし、具体的に規定される事実をさすが、一方文化は我々の歴史的判断がこの与えられた事例に下す名称にすぎない。

そして、文化が成熟するにつれて、遊びの要素が見えづらくなるようです。

一般的には文化が進むにつれ、遊びの要素はしだいに背景に退いていく。その大半はしばしば宗教的儀式の領域に入り込んでしまったと思われるが、遊び自体は学問知識と詩文、法律および国家的生活形式の中に結晶化している。だから遊びの要素は普段は文化現象の中に完全に隠されている。しかし、どんな時代になろうとも、たとい高度に発展した文化形式の中でも、遊びの衝動は湧き溢れるような力をもって再び勢いを取りもどし、個人も大衆も区別なく巨大な遊びの陶酔の中に巻き込んでしまうことができる。

文化素材が複雑化し、多様化し、めまぐるしくなるにつれ、また生産生活や社会生活、それに個人ならびに共同生活の技術がより緊密に組織されるにつれ、古い文化の基本的土台はしだいに理念、体系、概念、学説と規範、知識、礼儀作法といったもの、つまり、遊びには全く関係をもたなくなったと思われるものによっておおわれていく。文化はしだいに真面目なものとなり、やがて遊びにはほんの付随的役割しか残されなくなる。

このような「遊びで文化を創る」ことは、仮に生成AIが得意になったとしても、「効率性」だけが指標になることはなく、AIに任せる必要性は高くないでしょう。

人類をホモ・ルーデンスとして特徴付けることは、AIの進化と相性が良さそうです。また、ホモ・ルーデンスは、日本の行為主義とも相性が良いです。遊ぶことは、行為そのものが目的であり、それ自体に価値があるためです。

ちなみに、日本人の真面目さについても考察されています。

日本の生活理想のたぐいまれな真面目さは、実は、いっさいが遊びにすぎないという仮構を裏返しした仮面の姿である。ちょうどキリスト教中世の騎士道に似て、日本の武士道はまさしく遊びの世界の中に滑り込み、遊びの形式で行なわれる。日本語はこの発想を「遊ばせ言葉」、つまり身分の高い人に向かって使う雅びな敬語の中に残している。身分の高い人はやることなすことすべてを、まるで遊ぶように楽々とやってのけると考えられるのだ。「あなたは東京に着く」を敬語で言えば、文字どおりに「あなた様は東京にお着き遊ばされます」となる。

ただ、一般的に、遊びは真面目の反対の意味として捉えられます。真面目な気質の日本人として、ホモ・ルーデンスをそのまま受け入れるには抵抗があるでしょう。他の思想が必要そうです。

5.4 ホモ・フェリチュタス

ここで、人類をホモ・フェリチュタスとして定義してみたいと思います。
ホモ・フェリチュタスは、ラテン語で「幸福人」であり、人類が主観的な「幸せ」を目指すことに着目しています。

幸せになる手段は人それぞれでしょうが、幸せな状態であることに異を唱える日本人はいないでしょう。また、国際的にもウェルビーイング (Well Being) として受け入れられています。

そんなウェルビーイングは、行為主義とも相性が良いので、AIの進化とも相性が良いです。

  • Well Doing : 高い能力で目的を達成することに価値がある。成果主義であり、AIの進化に任せた方が良い。

  • Well Being : 良い状態であることに価値がある。行為主義であり、AIが進化したとしても、人間が良い状態である価値は変わらない。

そして、幸福やウェルビーイングは、臨床心理学での研究も多数行われており、実用的なツールも存在します。詳しくは、次回のデザインの章で述べたいと思います。

おわりに

生成AIとの向き合いは、哲学的な思想がベースとなり、西洋では人間とAIが主人-奴隷の関係であるのに対して、日本では仲間の関係であることが分かりました。そして、人類は、ホモ・サピエンスやホモ・ファーベルから、ホモ・ルーデンスやホモ・フェリチュタスへと進化しそうなことを見てきました。

AIが進化するほど、遊び・文化・幸福などの価値が再認識されるでしょう。
伝統文化は、守る必要があるという脇役の存在から、続けたいという主役になりそうです。幸福は、経済が優先される中での脇役の存在から、幸福こそが一番という主役になりそうです。

僕が好きな漫画版ナウシカの中で、「人間にもっとも大切なものは音楽と詩になろう」という言葉があります。読んだ当時は腹落ちしませんでしたが、今ははっきりと理解できます。

そんなことを、京都にある「哲学の道」を歩きながら考えていました。

第1回〜第3回で、生成AIの能力が人間に匹敵し、さらなる進化の可能性があり、人間はどうあるべきかを学び、問うてきました。

次回は、それらの前提を踏まえて、人間とAIが共生するカタチをデザインの視点から学び問います。

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