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美しい醜さと、美しくない綺麗さ

※この記事は、再録です。
初出:はてなブログ(2022-3-22)




■人により、生理的に不快と感じる文章表現があるので、注意してほしい。





Write: Rawbit

死にたい。しんどい。特に理由はない。希死念慮だ。頭が痛い。


不安を満たそうと、冷蔵庫で数日放置してしまっていたブロッコリーの芯を、肉だしで煮て食べた。

不味い。完全栄養食のほうがよっぽど美味しい。まるで死骸を食べているみたいに、臭い不快な臭いがする。冷蔵庫に放置し過ぎたのだろう。眉間に皺が寄る。


死骸という表現は、大抵の人にとっては不快で受け入れられない表現かもしれない。だが、間違ってはいない。



僕らは毎日命を頂いているが、人間の場合頂く前にその頂く肉体から魂を切り離す。そして魂を視覚化していた残骸を、綺麗に食べやすいように整えて頂く。

その切り離す儀式は、一部の人間のみが生業として背負い、我々はその命の重みも痛みも感じることなく、整え出された残骸をお金という何かと交換して頬張る。

その奇跡のような価値を理解することなく、当たり前のように、まるで通り過ぎるように、身体に流し入れる。そして、すっかり忘れて、生活に戻っていく。



ああ、これについて、文字にしてみよう。上手く言えないけど、文字にしよう。

あわよくば、誰かに僕の形容を喜んで欲しい。君の言葉が欲しかったと言って欲しい。笑わないで欲しい、馬鹿にしないで欲しい。





この世の中は変に綺麗すぎるので、僕は原始的な何かが恋しい。いや、恋しいというか、背負いたいと思う。背負って、生を実感したいのかもしれない。


世間に溢れる器が綺麗に整えられるほど、美しくないパッチワークのような醜い魂はその腐敗を隠し、美しさを擬態する。

美しい醜さを知らない魂は、美しくない綺麗さで何かを撒き散らす。それが自分は辛い。息苦しくて、辛くなる。隣に立っているだけで酷くしんどくなる。

器だけを見ると、皮で中身がわからない。漂ってくる臭いを辿って綻びを探すしかない。



複数の粘土の塊をくっ付けて、ぎゅっと固めたものは、少し隙間に指を入れるとぱっくりと割れ、脆く崩れる。表面を覆っていた皮を剥げば、その本体は酷く荒れて貧相だ。

けれども、ゆっくりゆっくりと薄く薄く、表面に塗りたくっていった塊は、頑丈で綻びがない。皮と本体は繋がっており、捲ることは出来ない。

ただ、中に空洞があったり、水分が抜けて壊れやすかったりもする。全然少しも完全じゃない。それが愛おしい。


僕は、そんなものを探している。誰も彼もが、表面の皮を美しくしたり、皮を纏ってそれになったと思い込んだりしている。


僕は、塊でありたい。剥き出しでもいい。剥き出しという種類の皮でいい。ささくれまくりの、ヤスリがけが多少されているだけの状態で、表面から呼吸をして、その場の湿気を吸いこんで、生きたい。


その塊は、言語を発する。その言語は、多くの人は聴き取れず、聴こえても要らないものとして、価値がなく使えないものとして、カットしてしまうかもしれない。

僕は、僕はそんなノイズを愛したい。そんなノイズでいたい。或いはノイズの存在を繋ぎ留める存在でありたい。あああ。





この記事は、きっと誰も読まないし、読んでも何も感じず、よくわからないものとして通り過ぎられるのだろう。或いは、厨二病とでも形容されて笑われるのだろうか。



僕は、自分以外の存在と、この湿気を吸いすぎて重くなった固形物のような感覚を、共有したい。

ハイコンテクストに、言語をぽつりぽつりと繋いで、おおかたは非言語情報だけで共有して、心地良さを感じたい。


寂しい、寂しい、寂しい、寒い、あたたかい暗闇にうずくまりたい。

お湯で溶かしてほしい。飲み下して、安心される、湿気を吸った固形のコンソメスープになりたい。みぞおちのあたりに、ポカポカが欲しい。ポカポカになりたいのか、ポカポカして欲しいのか?

そして、自分以外の個体による、ハイコンテクスト情報のあえての言語形容の仕方も教えて欲しい。新しい角度が欲しい。あああ。

あああ。ああああ。上手く言えない、むず痒い。気持ち悪い。恥ずかしい。消えたい。誰もわからないこれじゃ、あああ。



ここ数日すごく寒くて、魂のチャンネルがうろうろして、頭が霞みがかって、あああ。苦しい。あああああ。また離れていく。また離れていく。また離れていく。綺麗な器で居ないとまた人が離れていく。あああ。ああああ。

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