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ことばの焚き火

大澤真美・中村一浩・植田順・野底稔 著『ことばの焚き火 Dialogue in Daily Life』を読んでの、備忘。

前置きが長いが、街の本屋さんで出会ったのです


街の本屋がどんどん減って久しい。結婚をきっかけに、JR中央線沿いの西荻窪という街に住み始めて17年になるが、この街からも、本屋がどんどんなくなっている。

この街の誇れることは幾つかあるのだが、新刊本店が減って行く中で、古書店が、じんわりと、そしてしなやかに健在かつ点在していることは、とても誇れることだと思う。たまに、司馬遼太郎や塩野七生など、歴史方面の書物のまとめ買いをしたりして、お世話になることもある。さらに、極々たまーにたまーに、一般書店で取り扱い在庫なしの本を探してみたりするのも面白い。

一方、古書ではなく新刊本を扱う店舗として、駅前通りの「今野書店」が頑張ってくれているのはありがたい。ポップや選書のセンス、BGMなど、雰囲気が好きだ。頑張ってもらいたい。

そして、そして、セレクトショップ的な小さな書店もいくつか点在しているのも魅力の一つである。東京新聞・中日新聞の「公開選書」という書評コーナーに連載のあった辻山さんの営む「本屋 Title」や、旅にまつわる書籍を集めた「旅の本屋 のまど」など。それぞれ、個性があって素敵だ。

最近、そんな、街のセレクトショップ的な小さな書店のひとつ「BREWBOOKS」にふらりと立ち寄り、思わず、本を2冊買ってしまった。両方とも以前から少し気になっていた書籍。取り扱い点数の少ない書棚に、両方があった。あら、これはもう、出会いだわ。と思っての購入。

ことばの焚き火

今回触れるのは、そのうちの1冊。神奈川県三浦半島の「ハンカチーフ・ブックス」という小さな出版社から出版されている『ことばの焚き火』という本について。やはり「対話」について書かれた本である。

「対話」の入り口に立つ』で触れた、マーシャル・ローゼンバーグの「NVC」の本は、対話の手法や思考法(もしくは思想)について書かれた本だった。

この『ことばの焚き火』はもっと緩い内容で、言うなれば、「対話」の「雰囲気」が語られた本。「対話」についての考え方に共通点もあれば、相違点もあった。

「NVC」の読書会に参加した時の雰囲気を「焚き火を囲むようだった」というように表現したが、まさに、この本では「焚き火」が「対話」のメタファーとして記されている。私は、それを拝借したに過ぎない次第なのだが、それはそれ。まさにぴったりな表現なのである。

脱線として、接線の話


本の構成としては「対話」について、4人の著者によって、順に語られている。短い本だけれども、同じ趣旨だったり、違う解釈や表現だったり、それぞれの「対話観」が述べられている。

少々脱線すると、作家の沢木耕太郎が、取材対象を知るには、まず、その対象を円と捉え、極力多くの接線を引くことだ。ーみたいなことを言っていた気がする。接線が多いほど、円の正確な形が浮き彫りになる。接線は、対象へのインタビューだったり、書物による調査だったり、色々だろうけれど。

「対話」という捉え所の無い感じの対象についても、いろんな人の接線に触れることが出来るのは良いと思う。この本は、比較的近い、4つの点から放たれた接線だったのかも知れないけれど、それぞれ個性があって面白かった。

それ、即ち、「保留」


書かれていて、印象に残ったことを、多少の解釈を含め、かいつまんでみる。

・「対話」において、目的やゴールを設定しない。つまり、結論を出さないし、何かを解決しようとしない。
(これに近いことを、前回の「NVC」の読書会でも主催者が言っていたことを思い出した)

・場に出された(くべられた)言葉に対して評価(判断や解釈)をせず、ただ観察し味わう。

・その言葉に触れて生じた、自身の感情に対しても評価(判断や解釈)をせず、ただ観察し味わう。まさに焚き火を眺める感覚。
(湯船につかる感覚、川の流れに身を任せる感覚にも例えられていた)

・「対話」での発する言葉は、相手に向けて伝えあう、つまりキャッチボールするように、受け取って投げ返すイメージとはちょっと違う。

・「対話」での発する言葉は、即ち「場」に出された言葉、置かれた言葉。
焚き火に焼べられた薪。もしくは、水面に投じられた小石。そのようなものとして「眺める」。

・そうして生じた焚き火の変化や、水面の波紋の広がりを眺めることで、自分がどう感じたか。それを「観察する」。

・さらに、その感じたことを、言葉にして場に出してみる。置いてみる。くべてみる。投じてみる。

・もしくは、無理にそれをする必要もなく、只々眺めるのみ。つまり、沈黙であっても良い。または、場合により、少し(若しくは全く)関係のないことを場に出して(置いて、くべて、投じて)みても良い。

これらは、「保留」するという態度で、表現されていた。

目的を作らない。判断しない。評価しない。自分や他人の発話により、自分や場に生じた変化を、眺めてみる。(観察する)。必要に応じて、ずらしてみる。

それ、即ち、「保留」也。

所感


いくつかあるが、大きく3つ。

1)これは、その場を含んだ「自分」をメタ認知する作業に近いと思う。
言い換えると、自分との「対話」のようでもある。
書中にもその事が言及されていたが、やっているうちに、自分と他人(相手)という境界がなくなって行く気がする。

2)そして、そのような「対話」は、やはり理屈で解釈はできないもので、体験を通じてしか、吸収することができないのだろう。
稽古や修行に近く、実践を通じて、初めて体得につながり、アップデート(上書き)が生じるものだという。

上記はふたつとも、これまた、マインドフルネスの考え方にとても近い。(マインドフルネスについてはまた別の機会に触れたい)


3)マーシャルの「NVC」に比べると、やはり、緩く感じる。言い換えれば、間口がさらに広い。温泉に浸かるよう。でも、実は語られていることの共通点は多い気もする。本質は変わらないのかも。


まとまらないけど、無理矢理に総括


この姿勢で「対話」をやってみたら、ひょっとしたら、会話にならないのかも知れない。(そして、緩いと言っているが、やってみたら、全然、緩くないのかも知れない)

でも、そういう即興でできあがる「人」と「場」と「時間」の一期一会な雰囲気のもふくめて「対話」なのだという。ライブ演奏やライブペインティングに近いという。なるほど。

会社の打ち合わせ、とかではなかなか出来そうにない、気もするが、ちょっと、試してみるのも良いかなと思った。社会実験として。

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