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「対話」の入り口に立つ


「対話」とは

辞書を引くと、例えば、こう書いてある。あくまで例示。

たいわ【対話】
[名•自他サ変]
(1)向かい合って対等の立場で話をすること。また、その話。
(2)物事と向き合って精神的な交感を図ること。
「自然[歴史]との対話」

明鏡国語辞典

何故、私はここで、「対話」というモノについて触れようとしているのか。

経緯について、以下、少し、触れておきたい。「少し」と言うには、いささか長いのだが、端折った末のコレであるのでご容赦願いたい。

きっかけは、「資本主義経済」。
そして、その解釈について、だった。

真実は人の数だけ

限界無き経済成長。それが成立し得ないことは、少なくとも地球上では自然の摂理。だけど、資本主義経済は「成長」(と言うよりも「増殖」)し続ける事を、宿痾のように前提としている、ように思える。

その前提を、文字通りの「前提条件」として、精神の深くに受け入れている(つまり意識する必要すらない)状態が現代社会の、少なくとも日本の「文化」である、ように思える。

そこでは相変わらず「経済成長」が声高に叫ばれ続け、それを叫ぶ事が政界、財界で支持され、力を振るうためには必要である、ように思える。

「ビジネス」の現場では、今期よりも来期、兎に角、より大きな数値目標を掲げ、それを達成するため、「新規性」、「生産性」、「効率性」の名と共に根拠希薄な後付け理論が横行し、現場は常に混乱と疲弊に見舞われている、ように思える。

そして、教育、医療、福祉や生活インフラ、自然環境やら何やらまでが、全て「ビジネス」として捉えられ、「経済成長」のための「消費」の対象として取り扱われ始めている、ように思える。

かくして、資本主義経済と言うモノについて考え始めると、心がザワつく。自分の中でネガティブな感情が鎌首をもたげ、心持ちが乱れる。そして、どうしても文章も乱れる。

ので、今回は、それについては、これ以上深入りせずに一旦、脇に置いておきたい。

そもそも、前述の一連の「~ように思える」の群れは、私にとって、真実のように見えるだけであって、他の人の真実でない。

「分かりあえないってこと」を分かることの、その先へ

ともあれ、「経済成長あるべき論」が「文化」として浸透している、ように思える。

そこに強烈な違和感を覚えつつも、私は東京の一般企業で仕事を続けている。

そして、自問する。
「果たして、今の私は、仕事を通じて、世の中を善くするために、何某かの貢献ができているか?」
対する回答は、「その実感が薄い」だ。しかも、「極めて薄い」だ。

それについては、「生き辛さ」と言うほどではないにせよ、それなりの「やるせなさ」は感じている。

他の皆は、そう言った「やるせなさ」を感じることがあるのだろうか、ないのだろうか。

一歩引いて、そもそも、他の皆は、一体、どんなことを感じて日々を暮らし、どんなことを考えて今を生きているのだろうか。

今、自分の手の届く範囲の人々と、その各々が考える世の中の姿について語り合ってみたい。ーそういう、欲求が私の中に芽生えて久しい。

少し前までは、皆とそれを語り合ったうえで、さらに、何かを「分かり合いたい」と考えていた。

今では、これは、傲慢なことだった、と分かる。実に、傲慢なことだった。

先述の通り、我々が見ている真実は、各々で異なる。易々と分かりあえるはずがない。場合によっては(一つ間違えれば、そして規模はともかくとしても)、昨今、喧伝されて久しい、所謂「分断」と言うものを、発生させることだってあるかもしれない。

ので、最近では、そういう、危うい傲慢さを自覚し、飼い慣らし、お互いに分かり合えずとも、とにかく語り合ってみること。それだけが出来れば良いと考えるようになった。

でも、こういうことって、語り合うことですら、なかなか難しい。それに気が付くまで、そう時間は掛からなかった。

お酒の席などでの雑談は特に嫌いではない。でも、雑談はできても、そういうある種の「気だるいし、面倒な内容」について語り合うのは、なかなか難しい。ある程度、気心が知れていても、だ。

何故、難しいのか。理由はきっと色々あると思う。のだが、何となく分かってきたのは、理由はともあれ、兎に角、無手勝流では駄目だということ。先述の自分自身の傲慢さだって、ちゃんと飼い慣らせている自信はない。きっと、私の発話の節々から、文字通り傲慢なその顔を出しているのだろう。

では、どうすれば良いのか。

煩悶を重ねるうちに、おそらく、「語り合う」姿勢の「あり方」に課題があって、そこに何か糸口があるのではないかと考えた。

「対話」への入り口

「語り合う」ということの「あり方」を考えるに、さし当たり、「対話」という単語が思い当たった。

「分断」に対峙するための術の様に語られることもある。とは言え、一口に、「対話」と言っても、茫洋としている。そもそも、「対話」の仕方なんて、指南することそのものが難しいと思う。

それでも、何処かに先人の知恵が転がってないものかと、何冊か本を読んだが、やはり、なかなか、ピンと来るものに巡り会えないでいた。

そんな中、漸くたどり着いた一冊が、マーシャル・ローゼンバーグ著『「わかりあえない」を越える』だった。

著者は、所謂「NVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)」を提唱している。

NVCは対話において「OFNR」の4つを大事な要素として考える。
つまりはー

・Observations:観察すること
・Feelings:感じていること
・Needs:必要としていること
・Requests:望むこと

そして、上記に臨むに当たっては、「評価を交えないこと」が大事とされる。

まず状況・事実を「観察」し、それによって自分が「何を感じる」かを把握し、その感情は、自分が「何を必要としている」ことから生じたものかを把握し、その必要を満たすために「望む」ことを、「セットで伝えてみる」こと。

もしくは、「自分」を「相手」に置き換えてみる。状況・事実の「観察」から、相手の「感情」、「必要としていること」を考え、場合によって、相手が「望むこと」を考えて、確認してみる。そういうやりとりを、対話のあり方として推奨する。

おそらくは、「必要としていること」と、それに伴う「感情」には、人としてある程度の普遍性があり、つまり共感できるはず、と言うところが、ミソなのだろうと思う。それを、如何に素直に伝えるかーということ。理屈は簡単なようで、いざ実践となると、結構な修練が必要だと思う。が、兎に角、腹落ちがした。

「観察する」、「評価を交えない」というあたりが、何となく「マインドフルネス」っぽい。語られていることが馴染むというか、ピンと来る感じがしたのはそういうところもあるのかも知れない。

興味深かったのは、読み終わってからの出来事。読後感をSNSにアップしたら、ほぼ同時に、長らく(本当に長らく)連絡を取っていなかった、二人の知り合いから声がかかった。

二人とも「対話」と言うモノに関心があり、それぞれのアプローチで、おそらく今も「対話」と向き合っている。

古い友人からの誘い、その1:「演劇」×「対話」

一人は、中学からの知り合い。同じ大学を受験し、受験前は同じぼろ宿に泊まったりもした。彼は、以前から演劇に携わっていたが、近頃、「演劇」×「対話」にまつわる活動を立ち上げたそう。

11月半ばの日曜日、武蔵小杉で「演劇」×「NVC」の掛け合わせイベントを催すというので参加してみないか、というお誘いがあった。演劇の観劇をするつもりで顔を出してみたら、同じく参加した初対面の方々と車座になって、いきなり「対話」を体験してみるーという、斬新な会だった。

「対話」にまつわる本を読み始めてから、「対話」というものを意識しながら誰かと話をしてみる、そんな機会に初めて恵まれた日となった。

演劇(や、物語)は対話をメタ認知する装置として機能する、ーという観点も面白かった。

古い友人からの誘い、その2:「読書会」×「対話」

もう一人は、大学院の卒業旅行中にインドの片田舎の駅で列車を待っているときに出会った友人。カメラ好きと言う共通項から道中、色々と話をした。

近年、ファシリテーションなどの講座を開いたり、多彩に活動をしている彼女なのだが、『「わかりあえない」を越える』と同じ著者による『NVC(人と人との関係にいのちを吹き込む法)』の読書会を月1回のペースでやっているので、参加してみないかとのお誘い。「読書会」というものにも関心があったので、参加させていただくこととなった。


この読書会に10月に初参加してみて、11月の末に2回目の参加。参加者は「彼女の知り合いである」という共通項はあるものの、お互い初対面の方々。「NVCの本に書いてあること」という共通テーマを囲んで、ぽつりぽつり話をしたり、それを聞いたりする。

「本の内容」という焚き火を囲んで、その火を眺めつつ、各々の言葉を薪にして、くべて行く。そんな感じの会。

『NVC(人と人との関係にいのちを吹き込む法)』は読了していたが、読み終わって終わりではなくて、どうやって実践するか、という話である。読書会はそれを語る場として、とてもありがたい場だし、その焚き火的な雰囲気と時間が何となく贅沢に感じられた。

兆しのようなモノ

まだまだ、「対話」の何たるか、答えは相変わらず吹く風の中。

だけれども、本を読んではみたものの、こういうのって理屈ではなく、体感が大事なはず。修行のようなもののはず。そう思っていた私にとって、このふたつの誘いは、何か潮目が少し変わるような、そんな「兆し」を、風のように送り込んでくれた。改めて、お二人に感謝したい。おかげでこうしてキーボードを叩けている。

それぞれのイベント、会で出会った人々の言葉の温かさにも触れた。何故か、しみじみと、温かいのである。

それらの温かな言葉に触れ、思うのは、ここ数年に渡って、「人とのつながり」というものを、少しばかり粗雑に扱って来たな、ということ。というよりも、積極的に維持するゆとりがなかったのかもしれない。それらをもう一度、できる範囲で、少しずつ、少しずつ、リペアしたいと思う。

そして、古い友人との緩いつながりがもたらしてくれた、そういった私自身の小さな気づきや、小さな心持ちの変化といった、「兆し」のようなモノが、「善く生きること」へ、何某かの形で繋がると良いなと、漠然と考える。

果たして、続く、妄想と試行錯誤。

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