見出し画像

田舎暮らしについてのひとまずの報告 ②

技術への志向性(続)

川根本町に見られる技術への志向性について、話を続けましょう。さきほど僕は、アリストテレスの言葉を借りて「技術とは真のロゴスをそなえた制作能力である」と表現しました。クラシカルな美しい定義だと思います。でも実際に僕が観測して、いまのところ技術と呼ぶことにしている町民たちの特質については、ここにいくつかの要素を付けくわえなければなりません。

なんというか、もっとダイナミックで、弾けた感じなのです。クールジャズというよりむしろビバップなのです。当然理論はあります。それは前提です。でも忠実に則っているという意識はあまり感じられず、もっと奔放なのです。中央に気分があり、その表皮として身体というものがあるわけです。気分が縮めば身体も縮み、気分が膨らめば身体も膨らむ。操縦桿を握っているのは理性だけではないのです。たしかに自由すぎる即興が粗野に映ることもあるかもしれません。でもそういうことはそもそも大して問題とされていないわけです。川根のつくり手たちにおいて、ロゴスはパトスと隣りあわせにあり、というよりも混ざり合ったものとしてあり、創作行為にたいしてトータルに作用しているように思えます。

秋が暮れてきたころ、家の裏庭の樹の伐採をこちらで知り合った木こりの方に頼んだのですが、作業を終えた彼からひとつの提案を受けました。庭の脇に短い土の斜面があったのですが、そこに階段をつけてあげるというのです。切った樹の端をチェーンソーで削いで尖らせ、土に刺しこんで柱とし、二本の柱の間にもう一本の樹を渡して引っかけ、最後に斜面とのすき間を土で埋めて均し、それを繰り返すこと数段。ものの二十分ほどで階段が完成しました。野性のインプロビゼーション。たまらなくないですか。意味もなく昇って降りてを繰り返したものです。山道などにあるような類の階段で、脆いようですが思ったよりも頑丈で、十分実用に耐えています。

平たく言えば、遊び心があるということになるのだと思います。そして、その遊びが”お遊び”に留まらないための技術もまたあるのです。技術のある遊び。あるいは遊びのある技術。こちらでの日々はそういうことに溢れています。もっぱら自然環境にたいしての技術が目立ちます。森と川に囲まれた町で生まれ育つということを想像してみてください。一流か二流か三流かというのはもちろんまちまちあります。でも少なくとも、そこには技術を追求する姿勢があるのです。

田舎にある凪ぎ

節操もなく都市と田舎を二項対立で考えるのはあまり褒められたことではないかもしれませんが、技術ということについて考えるとき、やはりこの町が田舎であるということが何かしら関係しているのだろうと思います。たとえば物流において不便であること、そして自然という素材が豊富にあること。遠い市場と近い自然。もちろん多くの人間がポケットに市場を突っこんで生きている現代において、そこまですっぱりと割り切ることはできないんでしょうけれど、それでも一面の事実ではあるでしょう。世代の下限はあるのかもしれませんが。買いに行くくらいならつくって済ます、という論理を組み立てることはそう難しくありません。いわゆるブリコラージュ、器用仕事ということです。

言語によって体系化されている僕たちの世界認識は恣意的なものです。認識の恣意性の上に気分が、そしてさらにその上に行動が積みあがっていきます。人間とは恣意の積み木です。そしてそもそもの台座としてあるのが外部の環境なのです。自然が近い環境で育つことは、自らの内側に自然を育むことを意味します。あるいは自然の側へ自らを引き延ばしていくことになります。自己と自然の境界はある程度曖昧なものになるのです。

考えてみるに、その効用の最たるものは時間の感覚に現れるように見えます。川根本町には町民たちが「川根時間」と称するものがあり、これはつまり一般的な時の流れ方に対してゆっくりと感じられる町民特有の時間感覚を指しています。四つの季節がめぐり、昼と夜がくり返され、あたり一面に生える杉はいつまでたっても深い緑なのです。その悠然とした時間の流れが町民の暮らしに染みこんでいるということなのだと思います。それは気が散る雑音が少ないということでもあります。たまに侵入するそれも、結局のところ広大な湖面を撫でるさざ波に過ぎないということになるのです。一定の気分が長く続くということは、僕たちが何かを注意深く観察し、丸ごとの自己として関わり、一見隠された真理に近づくことができるということです。技術が養われるのは、結局のところそういう環境がこの町にあるからだと思います。

僕にしたって、気分の凪ぎというのは川根に移り住んでから感じることのひとつです(すでにある程度凪いでいたから移り住むことにした、という向きもありますが)。たまに帰省し、新宿の繁華街などを歩くとき、そういったことの差をしみじみと考えてしまいます。街頭ビジョンの競馬CM、ベルギーチョコレート専門店の新装オープン、拡声された右翼の核武装演説、路上ミュージシャンのバラード熱唱、赤いスーツの男。一歩歩くたびに新たな情報が飛び込み、自己は細かく分裂していきます。自己の寿命は一歩の幅に切りつめられていくのです。対して、延々つづく森と川と空。もちろんそちらの世界にだって、そちらの世界なりに、道路工事の標識が立っていたり、鹿が飛び出してきたり、落雷と豪雨に襲われる日があったりと、変化はあります。でもやっぱり全然違うわけです。僕としては首を振り振り繁華街を練り歩くことも嫌いではありません。そんな日々をなつかしく思い出すこともあります。でもいまはもう少しじっとしていたいのです。実際の問題として、歩く頻度は減りました。田舎に行くほど車社会なので一般的な傾向として歩くことは減ります。出発地から足を離せば、次に足を着けるのは目的地であり、中間は密閉された移動です。そうやって自己が変わらないまま運ばれていくのです。だから歩くことについての違いは、実際の問題を超えて、メタファーの次元で都会と田舎について大切なことを示しているように思えます。いずれにしても川根本町の技術志向には、ゆっくりとしか変わらない自然に近接した環境、あるいは自然と重複した自己認識のうえに成り立っているところがあると僕は考えています。

文章を書くときの手癖みたいなもので、僕は抽象と比喩の森に踏み入っていくところがあります(ほら、いまも、まさに!)。でも意外と行儀のいいところもあるのです。実は森の外に一つの時計台が建っています。成立はかなり古いらしく、時報の鐘が鳴るのはいまでは一日に一度きりです。すっかり夜も更け、真上から注ぐ月明かりが森のなかの僕をすっぽりと包みこむとき、その鐘は一日に一度の時を告げます。遠くの方から鐘の音がぼんやりと響いてきます。零時の合図です。すると僕はそれ以上の深入りはやめて、森から出ることにするのです。その時計台は”零時の時計台”と呼ばれています。ということで例を示したいと思います。自己と自然の境界が重なり合う世界認識ということについて。紹介するのは、この町(というのはへんてこな時計台なんてない川根本町の方です)で農家を営むひとりの女性についてです。

()

――――――――――――――――――――――

前回の話です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?