田舎暮らしについてのひとまずの報告 ①
報告、という形式でこれからの文章を書くことにします。扱うのは僕が見たこと聞いたこと、あるいは感じたこと考えたことについてであり、その主体である僕自身については基本的に眼を向けないようにします。あくまで僕は状況についての情報と反応が蓄積されている小さな箱としてふるまうこととします。そして報告はできるかぎり平易な言葉で行われるものとします。
町と、その集落について
今年の5月から静岡県川根本町という町で暮らしています。県内中北部に位置し、そのまま北上すれば南アルプスへと接続する地域です。静岡県にはめずらしく―というのはあくまで元県外民だった個人的な主観ですが―海に面しておらず、かといって町の北部を除けば山岳地帯というほど標高が高くもありません。いわゆる中山間と呼ばれるエリアです。町の中央を大井川という一級河川がまるで大樹の根のようにうねりながら流れています。かつてはこの川を境に遠江国と駿河国が隔てられていたそうです。敷地の9割は森林で、林業が一大産業でしたから、川は重要な輸送路でもありました。源流部はいまだなお原生の状態を保っていると聞きます。人々の暮らしは、川がこつこつと削り続けてきた山と山のすきまに集中しています。山間の地形を生かして茶の一大産地としても知られています。
人口は6,000人程度といったところです。役場のロビーに行くと毎月の人口推移が掲示されていますが、たとえば「転出 30」などと書かれていたとしたら、ちょっと考え込んでしまうこともできるくらいの人口です。月刊の町報の最終ページには亡くなった方のリストが載っています。高齢化率が50%を超える地域なので、たいていは80歳を過ぎた方ばかりですが。たんに数字の変動にすぎないはずの人口統計が、この町ではいくらかの想像力を刺激します。葬式が執り行われることも、空き家の数が増えることも、日常の出来事です。逆にいえば、子どもは希望です。吹雪の山道の先にぼんやりうかびあがる民家の灯のごとく、それははっきりと希望なのです。例の死亡者リストの横には、その月に1歳を迎えた子どもの写真が載っています。1人とか2人とか、その程度の数ではあるのですが。
僕が住んでいるのは上岸という集落です。集落というのはあまり聞き馴染みのない言葉遣いかもしれません。でもいったん都市部を離れ、山間部に足を踏み入れ、日本という列島が地層の隆起そのものであったことを思いだすとき、人間が各所に点在して集住する形式はきっと珍しいことでもなんでもないのだと思います。集落、あるいは村だとか百姓だとか、そういったものはおとぎ話の外にも実在するわけです。このことについてはきっと後でまた話すことになるでしょう。さて、上岸もまたそういった集落の一つです。たしかに行政上の一区画ではあるのですが、実際にその空間を区切っているのはもっと根本的なものであるということです。
さながら小クレーターのごとき地形の上岸には38の世帯が存在します。人口に直しても100人程度でしょう。それら全員を管轄する区長が1人います。区内に工場を持つ茶商の前社長がいまの区長です。そして個人的に驚きだったのですが、38の世帯はさらに4つの組に分かれていて、それぞれに組長がいるのです。ちなみに僕は第四組です(まだ言っていませんでしたが、僕は引っ越し当初に住民票を上岸へ移したので、すっかり正式な組員、もうカタギではないわけです)。組は互助のための最小単位です。回覧板は組ごとに回され、年に数回ある地区行事も基本的には組の単位で行動します。関東大震災からちょうど百年の節目でもあった防災の日には消火栓の開閉を確かめました。2月には氏神神社の祭りがありますが、それも組ごとに、お供えの餅であるとか、用途は忘れましたが打ち上げ花火であるとかを用意するわけです。
第四組のメンバーはこんな感じです。白髪のっぽの組長、団子っぱなの奥さん、もう一人おばあちゃん、ヨガの恩恵を一身に宿した明らかに若々しいおばさん、太ったおじさん、ヤギを育てているからか顔がヤギそっくりのおじさん、そして僕。情報量が凸凹なのはごめんなさい。まだしっかりと関わったことがない人も多いので。ちなみに組の中には行事には出てこないけれど、あと数人所属しています。一人は家に引きこもってしまっているそうです。もう一人は90代後半の、一点の曇りもないツルッツルのおばあちゃんです。名をトシさんといいます。回覧板の順序の関係で月に2回は話すので、むしろ関わりが深い方と言えるでしょう。
ふだん僕はどちらかといえば低カロリーのコミュニケーションをする人間ですが、トシさんと話すときばかりは例外です。彼女は老衰の結果、ほとんど耳が聞こえないのです。僕は声を張り、口をはっきり動かし、手振りをつけます。手のひらで筒をつくって彼女の耳もとに近づけ、鼓膜の奥に直接声を送り届けようと試みることもあります。成功率は20%といったところです。ただしこれはあくまで往路について。復路、つまりトシさんの返答が僕に伝わるかどうかにもひとつ障害があります。彼女は老衰の結果、ほとんどの歯が抜けていて、発話されるほとんどの言葉がふやけてしまうのです。さらには方言という問題も加わりますから、復路自体の成功率もまた20%といったところです。結果としてコミュニケーションの生存帰還率わずか4%という、産業革命以前の炭坑も驚きの悪路が現出することになるわけです。用件を済まして(済んだと信じて)、玄関の引き戸を閉めるときの疲労感と充足感は、ひとつの山から向かいの山にヤッホーと叫んだ後のそれに似ている気がします。
トシさんの話はこれくらいにしましょう。要するに僕の暮らしている上岸という集落、というより川根本町という町における、ひとりひとりの人々の粒立ち具合を伝えたかったのです。意図せず最高齢層の話をしてしまいましたが。いずれにしてもそういった粒が6,000個存在している、そしてそれらを挟み込むようにほぼ無尽蔵の森林が広がっている。川根本町という空間が、ざっくり言ってそのようなところであるということを伝えたかったのです。
技術への志向性
さて、ここまで話したことは、突きつめて考えれば、じつは何も話していないのと同じことかもしれません。田舎では都市よりも人口が少ないのでひとりひとりの存在感が大きい、というのは、言ってみれば、1/10と1/100では1/10の方が大きいという数学的真理の具体例に過ぎません。むしろ僕が伝えたいのは存在感の量ではなくその質についてです。横浜で生まれ育ち、中高大と東京に通い、新卒で東京の会社に就職した僕が、26歳になって川根本町へ移り住むことにしたのもまた、その質―当時はまだ予感に過ぎませんでしたが―に拠るところが大きいのだろうと思います。
ひとりの男性を紹介しましょう。ヒヅメさんという人です。僕が彼と実際に関わるようになったのはごく最近ですが、その存在を知ったのは移住する一年以上前、最初に川根本町を訪れたときのことです。当時僕が彼について見聞したことは二つだけ。①非常勤講師として京都の某私立大学と東京の某美術大学で数学と建築を教えているということ ②奇怪なオブジェの構想者であるということ。
奇怪なオブジェとは、泊まったゲストハウスの庭に建っていた構造物のことです。それは竹で編まれており、輪郭を辿れば金平糖とも棘に覆われたウニとも取れる形状をしていました。ただし高さは2m以上あったと思います。田舎の盆地の一角、和風の古民家の前庭にあって、それは明らかに異様な雰囲気を放っていました。子どもじみた発想かもしれませんが、それはまるで宇宙からの飛来物でした。遥か昔、まだ一帯が山と木々に覆われていたころ、突如それが墜落し、爆風とともに辺りの地形を吹き飛ばし、そうして形成された集落に住み始めた人が代々畏怖の念とともに祀り続けてきたのです。それだけの風格はありました。
あながち外れた妄想ではなかったのだと思います。後から知ったことですが、構造物の名は「星籠 STAR CAGE」というのだそうです。6つのペンタグラムからなる黄金比の結晶体であり、ヒヅメさんの生涯を通じたプロジェクトであると聞きました。大切なことは、当時の僕における町への印象に、オブジェとその作者であるらしいヒヅメという隠遁学者の存在が、日常を突き破る謎としてくっきり刻まれたということです。まるで放浪するユダヤ民族の精神を照らすあのヘキサグラムのように。
彼の創作物には、フィボナッチ数列をベースにしたオルゴールというのもあります。まったくの偶然によって、僕は彼が27年に渡る構想の末についに完成させたオルゴールの実演の場に立ち会うことになりました。六枚の木製の歯車には、それぞれ5、8、13、21、34,55の歯が精緻に刻まれており、音同士が重なったり離れたりして音楽を奏でるのです。正直に言って、説明されたところでよく分かりませんでした。でもひとりのおじさんが、熱っぽい陶酔した眼つきでオルゴールのつまみを回し、心底嬉しそうに微笑んでいるのです。そういうのって、まったく素敵なことじゃないでしょうか。すくなくとも僕は素敵なことだと思います。
働き方についての議論をしたいわけではありません。近ごろ「好きなことで食べていく」という求心的なスローガンをよく耳にしますが、それはあくまで帰結です。僕が惹かれたのは単純にそういうことだけではありません。そもそも厳密にいえばヒヅメさんが本当に好きなことで本当に食べているのかどうか僕には判断できませんし。僕が惹きつけられたのは、端的にいえば、世界と交渉する技術です。介入するのではなく誘い出す仕方での、いわばポイエーシスとしてのテクネ―です。まず観念があり、それに対応する事物が存在しないときに、世界を味方につけることで観念を事物へと生まれ変わらせる。突き詰めればヒヅメさんが取り組んでいるのはそういうことになるはずです。
ヒヅメさんに限った話ではありません。星籠の置かれていたゲストハウスのオーナーもそうした技術者の一人です。ショウキチさんという人です。いろいろな名前を出して申し訳ないですが、関係性的にもこれから触れることが最も多いであろう人物の筆頭ですので。移住のそもそもの始まりが彼の語る物語であり、移住して以降僕が主に携わっていることは彼と共同でやっていることなのです。
さて、たしかにショウキチさんは宿を経営しているわけですが、お客さんのいない日中はおもに大工のようなことをしています。目下は宿の隣の古民家の改修を進めています。宿の経営者として部屋数を増やす、という論理がまったくないわけではないと思います。でも本人曰く、そもそもDIYをする口実として宿を経営することにしたということですから、一概に日曜大工とは言えません。職業大工ではありませんが、開業時の改修でプロの大工から一通りの教えを受けており、目下の改修も、基礎固め、柱の継ぎ直し、外壁や内装の工事まで、ほぼ独力でこなしています。一年以上の長丁場です。費用も相当額に上るでしょう。
規模の大きさはもちろん舌を巻くものがあるわけですが、彼が技術者たるゆえんは細部にこそあります。木材や工具、それらを扱う人体の性質を熟知し、必要な形状や構造の部材をつくりあげてしまうのです。ノコギリで木を切るという工程ひとつ取っても、そこには実に複雑な要素が含まれています。木の繊維の向きがあり、切る段階に応じたノコギリの刃の適性があり、真っすぐ肘を引くための身体の配置があるのです。物事には自然な流れというものがあり、それを捉えて身を任せることで、実用に耐えうるオリジナルの造作へとたどり着くことができるのです。自然な流れとはいわば真理のことであり、その意味で技術は真のロゴスを伴う制作能力と言えるのでしょう。
ゲストハウスに初めて泊まったときにここまで考えがまとまっていたわけではありません。でもピリピリとした予感はありました。僕が身につけるべき何かがここにあるのだと。単純に木工という領域そのものに関心があったことは無視できません。でも注意深く考えれば、要するに僕は技術的になりたかったということに尽きるのだと思います。木工という領域は、生存するために必要不可欠であることとそれがゆえに長い歴史を持つこと、端的にいえばそのプリミティブ性がゆえに、身につけるべき個別の技術として僕の趣向に沿うものでもありました。
技術志向の雰囲気がある、というのが7カ月間暮らしてはっきりしてきた川根本町に対するいくつかの印象のうちの一つです。技術に長けているというと職人風の老練な人物を思い浮かべるかもしれません。でもショウキチさんなどはまだ三十代半ばなわけです。年の功がある程度物をいうことは否定しません。ただし精神性といいますか、世界への態度については、年齢の如何を問わないでしょう。僕たちを取りかこむ世界には真理というものがあり、正しい技術でもってそれを誘い出すことさえできれば、僕たちはさしあたって存在していないものでも自ら創ることができるのです。僕が出会ったいくらかの人たちは、そういったことを信じていました。全員がそのような性質を持っているという断定はしていません。わりとそういう人が多いという印象を僕が抱いたに過ぎないということは、くどいようですが、やはり忘れないでください。
(続)
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