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大清水トンネル2|ある殊勝な使命感

(「大清水トンネル1」から続く)

 そして、函館空港から羽田空港への帰路、雲の割れ目から覗く日本の陸地を飛び越えながら、私はある殊勝な使命感に駆られていた。もっと、日本の地方のことをこの眼で見なければならない。見たい、という以上に、見なければならない。それはきっと、東京暮らしが長かった反動で地方での暮らしに魅了された、というだけではなかったように思う。何よりも、見ようとすらしていなかったものを見るという態度こそが取られなければならなかった。そのいったんの対象が地方だった。そして、たくさんの地方の地域をじかに見るための手段として、多拠点という暮らし方は実に自然に浮かび上がってきたのである。

 ところで、私は時を同じくして、都内の広告代理店に就職をした。そこはインターネット広告を主戦場としており、私はそれら広告の運用担当だった。運用というのは、株のトレーダーを想像すれば分かりやすい。毎日の広告配信の実績を分析し、一層効率を高める調整を行う。トレーダーが幾つものモニターを取りつけた自室で仕事を済ませているように、広告運用もパソコンが一台あれば完結できた。

 新生活への期待や抱負がなかったといえば噓になる。しかし、何より強い決意は、会社と一定の距離を保とう、というものだった。いま思えば、過ぎた二項対立だったのかもしれないが、東京の企業へ出社して働くという態度は、冬以来抱いていた使命感と相反するように思われたのだ。その使命感もまだうぶであったからこそ、風前の灯火のように、ふとしたことでかき消えてしまうのではないかと不安だった。とはいえ、この会社でしばらくは働きたいという思いもあった。吹きつける風を享受しながらも、小さな炎を両の手のひらで囲うような時間が過ぎていった。

 半年間、横浜の家で在宅勤務、あるいは東京のオフィスへ出社する日々が続いた。最初は目新しかったその生き方も、次第に日常になっていくにつれ、音もなくじわりじわりと自分の内側へ染み込んでいった。精神において、一定の距離を保ち続けるのも、難しい気がした。小さな炎を灯すワケがふと分からなくなったりもした。

 だから、物理的にも距離をとることにした。東京から離れたところに身を置こう、と。

 今回が、その本格的な第一歩だった。長いトンネルはいつの間にか通りすぎていた。すっかり夜が更けていた。しばらくして車内アナウンスがかかった。
「次は燕三条駅に停まります」
 私は新潟県燕市へ向かっていた。

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