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Cahier 2020.05.16

雨の土曜日。暑くもなく寒くもなく、さぁさぁと降りしきる雨音を聴き続けて過ごす。

雨の日に焚くお香は、乾いた晴れの日と違って湿り気の中に香気が漂うようで、それはそれで心地よく、いつもより少しゆっくりと呼吸をしたくなる。

松浦寿輝『青の奇蹟』を再読しながら、むかし恋人と一緒に訪れた「作家の家」のことを思い浮かべる。

彼とは付き合っていた10年の間、色々なところへ旅行へ行った。

特にテーマや目的のある旅をしていたわけではなかったが、「作家の家」をよく訪れていたことを思い出す。

白秋が暮らした「小田原文学館」、奈良の志賀直哉旧居、尾道にある「林芙美子記念館」(志賀直哉は尾道にも暮らしており当時は旧居も残っていた)、金木村の「斜陽館」、フォンテーヌブローの森の近くにあるマラルメの家……

いまもその作家の本を読むと、そのときの光景が蘇る。

キャビネットには数え切れないくらいの美術館や映画のパンフレットやチケットが雑多に押し込まれていて、写真だけは何枚かプリントして1冊のアルバムにしたけれど、日記はほとんど付けていなかった。

あの頃のことを何か形にしておけばよかったのだろうか…今でもよくそんなことを思う。

目の前のことだけを考えてた子どもっぽさや単なる怠慢のために、あの頃見た風景や出会った物ごとを「記憶」なんてあやふやなものに一任してしまうなんて、ずいぶんと不注意だったものだ。

現に忘れていること、忘れかけていることがたくさんある。

あの10年が今の自分を形作っていることはたしかなのに、まるで靄に包まれたような曖昧な記憶しかなく、その色も形も見えないのは寂しいことだ。

本を再読し続けるのは、日々失われていく幸福だった頃の記憶を手探りで追い求め、いまここに留めておくためのひとつの手段なんだろう。


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