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Cahier 2020.09.10

菊の花、と言ってもうひとつ思い出すのは、凡河内躬恒が詠んだ歌。

 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花

この歌について、正岡子規が『歌よみに与ふる書』の中で「いくらなんでも白菊と初霜を見分けられないのはおかしい」と痛切に批判していて面白い。いまでこそ菊と初霜の組み合わせはピンと来ないものの、松尾芭蕉にも「初霜や菊冷え初むる腰の綿」という句があり、秋の終わり、だんだん寒くなってきたなぁと肌で感じ始める頃、誰もいない早朝にふと初霜が降りているのを見て冬の到来を知る、そういう様子であるらしい。だから、晩秋、未明の空の下で白く光る初霜と白菊の組み合わせは、冬の到来を人知れず告げる、どちらかと言うとしんと静かな光景を思わせるのだが、どうやら躬恒は少し浮かれた調子で、初霜を踏み分けて菊の花を「心あてに」手折りに行こうとしている、あるいは、そうした様子を夢想している。

子規が憤ったのは「いや、霜と菊くらい見分けつくっしょ」という視覚的なことだけではなくて、歌に詠まれた景色と躬恒の浮かれた行動の間にあるこのギャップに、どこか嘘くささをかぎ取ったからではないか、という気がする。きっと躬恒は実際にある早朝の日にこのような光景を目にして、心動かされたのだろう。でも、そこで詠まれた心は、その光景が湛える静けさや楚々とした清らかさに対して、ずいぶんと気まぐれで乱暴な気分、そんな感じがする。言葉のイメージに惑わされず、詠まれた心の本質を突いた子規のツッコミの鋭さにシビれる。

 君がため 春の野に出でて若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ

残雪の春の初めに恋人のために若菜を摘みに野に出たという、光孝天皇御製のこの歌の情景を想うと(いや、そもそも比べるものではないけれど)、折られる菊の側からしてみても堪ったもんではない。せめて初霜の冷気で顔洗って目ぇ覚ませ、とでも言いたくなるような、そんな歌である。

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