Cahier 2020.12.14
先々週末、遅ればせながら紅葉狩りでもしようかと、筑波山へ行ってきました。
筑波山と言えば、百人一首で陽成院が詠んでいる「つくばねの峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる」という歌。男体山と女体山からなる筑波山の間を流れる男女川、その淵たるやさぞかし深いものだろうと、かねがね見たいと思っていました。
ところが。
ん…?水たまり…?昨日の雨かな??え、これが男女川の源泉…?
まぁでも淵というくらいだから上流ではなくて下流に…と思い直してみたものの、下流の桜川にもそのような淵は見当たらず。
京の都にいた陽成院は実際に筑波の地を訪れたわけではなく、歌枕として選んだわけなのですね。しかし、歌枕とはいえ、これはもはや別の川なのでは!?と思わず突っ込んでしまいたくもなります(笑)
ただ、それが和歌の面白いところでもあります。
わたしがこの歌を見て、男と女の間を縫って滾々と水の流れ落ちる暗く深い淵を想像したように、言葉や地名が喚起するイメージは時に実物の姿よりも強く”かくあらまほし”と訴えてくるもの。いにしえの殿上人がただならぬ恋の行方を未だ訪れたことのない筑波の山に託したのだとすると、むしろその恋の境地が決して足を踏み入れることのできない幻の場所であるようにも思われて、その淵も奈落のごとくより深く感じられます。
今後も決して訪れることのないであろうその筑波山、その地理的・心理的な果てしない遠さが恋心の悲痛さを表現すると同時に、恋の悩みを現実とはかけ離れた夢幻の世界へと送る、ある意味冷静な大人の男の歌という趣もあるでしょう。非常にストレートで淀みのない歌ですが、わたしのように意地悪でひねくれ者の姫君相手であれば、「でもそんな淵、あなたもわたしも見たことございませんわね」と、憎まれ口のひとつやふたつ、ぼやいてもみたくなるかもしれない(笑)
でも、なんかもうちょっと淵っぽくても良かったな…と、ちょっとがっかりして帰路についたのでした。