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しずかちゃんになりたいのび太くんがいっぱい。

自分以外何者にもなれないのに、
他人が持つ尖った「何か」がない自分に溜息をついてしまうことがあります。

その「何か」があれば、評価されるのは自分だったかもしれない。

そう思ってしまうのは、自分の所属する集団、社会の中で、その「何か」が重視されているから。

ただ、ちょっと待って!

これはお世話になった方の受け売りですが、

のび太くんがどんなにしずかちゃんのふりをしても、しずかちゃんにはなれない。

包丁がどれだけ炒めたいと思っても、フライパンには敵わない。包丁は切るのが役目であって、フライパンを羨ましがっても仕方がない。

ということでして、

要するに前提が間違っているそうです。
「何か」はひとつじゃないんです。

たまたまその場所で、それがあったほうが多くの人が助かって、楽に生きられるだけなんです。


私はのび太くん以外の何者にもなれないのに、
しずかちゃんの役はしずかちゃんがやるのが一番効率的なのに、
なぜか現実社会ではのび太くんがしずかちゃんになろうとしてしまいます。

私のインナーチャイルドはずっと

「ぼくはのび太だもん」

って拗ねてますけどね。
のび太くんはのび太くんができることをしたら良いのにね。

ヒトカゲがゼニガメと相性が悪いと言われても、
そりゃそうだよね、ほのおタイプとみずタイプじゃあゼニガメが有利に決まってるよねってなります。

ほのおタイプがみずタイプを覆すとか燃える展開、創意工夫は今要らないので置いておきますが、

ゲー厶キャラの攻撃力や速さ、防御力といったパラメータの偏り、タイプは「個性」として受け入れられるのに、
学校や職場では「これ」を伸ばせ、「あれ」を減らせと矯正させられるのは何故なんでしょうね?

違うんですよ。
たまたま同じ場所に集まっただけで、
ゼニガメが10匹いるわけじゃないんですよ。

タケシに挑め競い合えって言われても、全員がみずてっぽうが打てるわけじゃないんですよ。
ヒトカゲだって混ざってるんですよ。

でもヒトカゲが価値がないかといったら違うじゃないですか。

現実社会だって同じはずなのに、足並み揃えて育成させられるのは、
ゲームのようにパラメータを数値化できるものさしがないからでしょうか。

私は、それを補ってくれるのが占いや統計学だと思っています。

私には私にしかできないことがあります。

今つらいことがあるとしたら、
のび太くんがしずかちゃんになりたがっているとしたら、

それは環境と自分がのび太くんとしずかちゃんの違いを知らずに同じゴールに向かって歩いているからに他ありません。

また忘れてしまうことがあっても、
つぶされてしまいそうになっても、

私がのび太くんにしかない「何か」を磨くことを忘れないでいたいです。

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