生きるということは、繰り返すことである#7
はしがき
生活スタイルもずいぶんと変わってきて、すこしずつだが、歯車が動き出したような数日を過ごしている。
僕のように、なにかに夢見る人間は、基本的に刺激ジャンキーで、常に新しい刺激を求めていたりする。
そんな人生を変えるべく、現在試みているのが、習慣化というものだが、そんな平坦な毎日を生きていると気づくことがある。
ただの繰り返しの中から生じる小さな綻びだけが唯一の刺激だ。
つまり生きるということは、そういうことなのだ。
一つのものをぴかぴかに磨ける人
なにかに長けていたり、なにかに秀でている人たちは本当に素晴らしい。
かく言う僕も、いまはその途中段階だと思っているが、やはり人間の凄みは専門性だと思っている。
動物はみんな、軒並み同じように見えることがあるが、人間はまるで違う。
自然界の中でここまで大きく、単体で分かれている生き物は人間くらいだ。
だからこそ、一つのものをピカピカに磨ける人間というのは、重宝される。
なにかをピカピカに磨くのにはとても時間がかかる。
それ相応の頑張りや、何かしらの制限のなかで、自分にしか無いオリジナリティというものは生まれてくる。
それを可能にするのが、この平凡な、70点の毎日を懸命に過ごす継続力と習慣なのだと僕は思っている。
これまで自分になかった力をつけるのには最適だ。
しかしこれから先は非常に退屈でつまらないだろう。
僕にはその、つまらなさに耐える力が必要なのだ。
今ここで恋愛をして、滅ぼしたくない
僕は恋愛をしてしまうと、だらだらしてしまう。
わかりやすく、なにも手がつかなくなってしまう。
ここでもし恋愛をしてしまったら僕は、野望を遂行出来ない。
ここまで自分を追い込むのは、きっと大きな大きな〝焦り〟があるからだろう。
自分の十字架が決まった人生では、自分の行動一挙手一投足がすべてを決める。
そのうち自分自身がきつくなってくることはわかっていたものの、この罪からは逃げられない。なぜなら僕は、このままでは死んでしまうだろうから。
社会的に、もしくは、生命的な。
身を滅ぼさないための自己防衛、それが、恋愛をしない大きな理由である。
こんな事を考えて生きていたから、僕はすっかり、他のことに希望を見出だせなくなってしまっていた。
ペシミストになんかなりたくなかったのに。
あとがき
一段階上の自分になりたい。
でもそのためには沢山のものを捨てて、沢山のものに制限をかけなければならない。
かつ、日常的に、その手を止めることなくやり続けなければならない。
やりたいことさえなかったら、叶えたい野望すらなかったら、本当はもうすこし普通に生きれただろうに。
やりたいことが出来てしまったら、納得がいくまでやめられない。
自分との戦いに負けるわけには行かない。
普通に恋愛して、結婚して、子供を授かり、明日も娘の笑顔を見るために働く、そんな日々に憧れる。
一刻も早く、核を持ちたい。
何者かを目指すというのも、案外簡単なことではないのだ。
この苦しみは、台風の前の静けさと同じ。
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