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理想郷の墓掘り人【SF短編小説】

 マキハラは、“Twilight Clean Service”のロゴが大きく描かれた社用車に乗り込むと、行き先を入力した。助手席に相棒のコウダが乗り込み、マキハラにコーヒーゼリー飲料のパックを手渡した。車は目的地に向かって自動走行を開始した。

 移動時の雑談は、彼の楽しみのひとつだ。自宅での会話も悪くないのだが、やはり人間相手の会話の方が楽しいと感じる。ただ、それを若いコウダに言うのは憚られた。”ロボットより人間の方が〜”という文脈が「差別用語」化して久しい。彼は、結婚は基本的に男女ひとりずつ、が常識だった最後の世代だ。

 コウダがため息をついたのを機に、マキハラは「パートナーと喧嘩でもしたか?」と切り出した。コウダは「そんなとこです。アリスと最近、揉めがちで」と、テンション低く答えた。マキハラは慎重に訊いてみた。
「……なあ、この話、続けても大丈夫か?問題ないなら、続きを聞きたいんだけど」
コウダは隣を見て、微笑んだ。
「俺とマキハラさんの仲じゃないっすか。マキハラさんはモラハラ上司じゃないってよく知ってるんで。なに訊いてもらっても大丈夫ですよ」
 マキハラはホッとした。ゼリー飲料のキャップを緩めて、ひと口飲むこむ。
「お前さんのパートナーって、アリスの他にもいたっけ?」
「いますよ。ノアってのが。俺んとこのパートナーシップはthreeです。レトロな言い方だと、三人家族です」
「ふうん……で、なんで揉めてるの?」
「自分の遺伝子を引き継いだ人間がいるのか調べたい、とか言い出して」
「調べて、もし居ることが分かったら、どうするんだ?」
「引き取って手元で育てたいとか言ってて」
「ええっ、無理だろそりゃ」
「ねー違法ですよね。大昔は、ヒト同士で子供を作って、家庭って共同体で育ててたって歴史で習いましたけど。いまは、子供は100%国の管轄ですからねえ。一般ピープルが立ち入れる領域じゃないっつうのに」
「なんでまた、そんな事を言い出したんだ」
「あいつ今、昔のドラマにハマってんですよ。第四次世界大戦前の。でもって、家族のキズナが、とか、血のつながり、とか、ワケ分かんないこと色々言ってて」
「へえ。お前ら世代も、そういう事を言う奴がいるんだね。まあ、少し彼女の気持ちも分かるかな。俺も昔は憧れたことあるから」
「彼女?アリスは男ですよ」
 マキハラは素早く隣を伺った。性差別につながる発言、と取られただろうか。コウダはとりなすように「アリス、って古典の話でありますよね。女の子が主人公の。あいつも言ってましたよ、上世代のひとには、名前で女と思われることが多いって」と言った。
「すまん」
「いやいや、俺も性別を伝えてなかったっすよね。アリスもノアも男性です……マキハラさんは、パートナーは女性ですか、やっぱり」
「まあね」
「でもって、パートナーシップはtwoですか。あ、その場合はpairって言うんでしたっけ」
「どっちでもいいよ」

 コウダはゼリーを飲みながら、感心したように笑った。
「マキハラさんも、生まれ育ちは俺と同じfarmでしょ?それでも、パートナーは男と女のひとりずつが望ましいって考え方ですか?」
 マキハラは苦笑した。human farm(人類農場)という施設の呼び名は、いまだに馴染めない。彼のころはorigin of the family(国家家族)と呼ばれていた。
「まあ……俺ら世代は、まだ前世紀の慣習を引き摺ってるとこ、多いからなぁ……俺個人としては、今の、性別も人数も縛りがない、結婚の登録も解除も簡単って方が、気楽で良いと思うけど」
「俺に気を使ってません?いやあ、以前は女性がパートナーだったこともありますよ。けど、女性はその……する時、避妊しないとだし。万が一、自然妊娠なんてことになったら行政処分だし。なんか面倒、みたいな」
「そんなもんかなぁ」
 随分な言い方だな、とも思うが、たぶんその感想は、前時代的なんだろう。デリケートな話題だ。個人の感想は、求められない限り口にしないのが無難だった。

⭐︎  ⭐︎  ⭐︎

 人類が、定期的に精子と卵子を行政に提出し、国家主導で子供作りを管理されるようになって、既に一世紀が過ぎようとしていた。

 現在は、ヒト同士の性交で子供を作ることは、固く禁じられている。適正に選別された精子と卵子を体外受精させ、人工子宮での保育を経て取り上げられ、新生児用保育器に移されて育てられた後は、国の施設で手厚い育児が行われる。そして五歳からは、施設と学校を行き来しながら十五歳まで過ごし、その後は適性で進路が分かれる。
 遺伝子的繋がりがある親と子が顔を会わせることも、それを知ろうとすることも違法だ。マキハラは学校の授業をぼんやりと思い出した。


 『……人類が、結婚という個人間の契約を結び、性行為で子供を作っていたころは、多くの事故が起こりました。自然妊娠からの出産は、女性の身体に大きな負担をかけ、時には母親が、または親子ともども、生命の危険に晒されたのです。

 そうした危険を潜りぬけて出産してからも、困難が続きました。親の資質と能力に子供の運命が左右されるのです。それは多くの場合、非常にリスクの高い賭けのようなものでした。管理の見落としから怪我をしたり、親のストレスからの虐待によって心も体も傷つき、命を落とす子供が後を絶たなかったのです……

……ロボットの発達が、人類の育児を劇的に変えました。ヒト個人による家庭での不確実な子育てが、行政とロボット達の手によって適切に行われるようになり、人類は、それまで育児に費やした膨大な時間とコストを、他の社会活動に向けられるようになり……』


「マキハラさん、そろそろ着きますよ」
 コウダの言葉で、彼は我に帰った。ナビシステムには到着まで一分と表示されている。
「すまん、ぼっとしてた」
「いえ……あ、あそこですね」
 目指す集合住宅の玄関に設置された門灯が、点滅していた。マキハラたち清掃業者の接近を、住居エリアのカメラが感知して、死亡者のいる場所を知らせているのだった。既に国家警察が遺体を確認した後だ。彼らが呼ばれたということは自然死を意味していた。不審死なら別ルートで別の業者があたることになる。
 現場に立ち会う人の姿はない。マキハラ達は、指定の駐車場に車を自動駐車し、仕事の道具を下ろした。既に、身体を隈なく覆う防菌ツナギを身につけている。そして顔をすっぽりと覆う防塵防臭マスクを被ると、ラバー製の手袋をはめた。
 マキハラはマスクの中で声を上げた。
「聴こえる?」
 耳元のスピーカーからコウダの声がする。
「はい」
「行くか」
 彼らは道具を担ぐと、点滅を続ける玄関の前に立った。ドアが自動でひらいた。

 この手の住宅によくあるタイプの部屋だ。室内は比較的、綺麗に整頓されていて、マキハラはホッとした。単身者の場合、足の踏み場もないほど物がひしめき、荒れた室内も珍しくない。
 玄関を抜けてすぐの廊下に、高齢の女性が倒れている。マキハラは端末を取り出して、女性の指先をそこに押し当てた。
「該当者と確認」彼は声に出して読み上げた。それから二人は、持ち込んだ袋を遺体の脇に広げて、その中に女性を入れ、袋のファスナーを引き上げた。二人でそれを抱えると車まで運び、後ろのドアを開けて、運搬用の棺おけに収納する。
 今の時代、全ての人間は生まれた直後に行政に登録され、生命反応が止まれば、自動的に中央に連絡が行く仕組みになっている。長い期間、放置されることは起こり得ない。

 二人は家にひき返し、ここに登録されているロボットペットの姿を探した。ペットが稼働中、又は電源が切られてリサイクル不能だった場合のどちらも、ペットのメーカーに返却する決まりになっている。
 チワワタイプの犬型ロボットは、飼い主のベッドの上で丸くなっていた。コウダが犬の身体を抱え、さっと調べた。
「……メイン電源、落ちてます」
「リサイクル不能、と」
 コウダは玄関まで犬を抱いてゆき、その場にロボットの身体を横たえた。二人はいくつか箱を成形すると、室内の衣類や雑貨を処分用の箱につめ、家具をチェックして「分別済」のシールを貼り、書類は精査用の箱に詰めてゆく。分別の基準は国が決めたものに従う必要があった。二人共、マニュアルは頭に入っているので、手早く作業を進めていった。

 マキハラは脚立に登り、カーテンを外しながら、コウダに呟いた。
「知ってるか?亡くなった飼い主が歳を取ってる方が、電源も落ちてる確率が高いって。だいたい比例してるらしいよ」
 コウダは手を止めずに
「言われてみれば、たしかに。あれって生前にそう申請してて、ロボットのメーカーがリモートで電源オフにしてるんじゃないんですか?お年寄りはその……自分が死ぬ時のことを考えて、準備してるのかなって思ってたんですけど」
「メーカーが止めるのは、警察から要請があった場合くらいだよ。滅多にないけど、暴走した時とか。ロボットの人工有機脳はさ、開発に時間がかかるから、メーカーは劣化が酷い細胞だけ替えて、記憶を初期化して、再利用したいわけ。なんつうの、システムの活動限界までは、経験を重ねれば重ねるほど、脳が進化するらしい。でも主電源を落とすと、脳も死んじゃうだろ」
「ここみたいに、突然亡くなった感じだと、飼い主が止めたとは考えにくいですよねえ」
「そうなんだよ。現に、止まってないことも多いじゃない」
「じゃあ、自分で電源切っちゃうってことですか?……え、ペットは自殺ってこと?」
「メーカーの知り合いが言うには、自律性ロボットは、主電源を切るかどうか、自分で決められるんだと。唯一それだけは、決定権は飼い主じゃなくて、本人って訳だ。有機脳が開発された時に、”そういう仕組みに作られた”とかなんとか……」
「そうなんだ。知らなかった……へええ」
 コウダは本心から驚いたようだった。無理もない。彼もそれを聞いた時は驚いた。殉死、という言葉が頭に浮かんだ。しかし実際、そんなことが起こるのだろうか?なんらかのバグのようなものかもしれない。

 今は、その気になれば、働かなくても生存してゆける世の中だ。最低限の所得は保証され、厳しい仕事はロボットが引き継いでいる。人間の労働はいわば、死ぬまでの暇つぶしのようなものだった。決して無理強いされることはなく、誰もが少しだけ妥協し、受け入れ合って、全体を上手く回してゆく。そう、俺たちは恵まれた時代を生きてる。膨大な時間と試行錯誤を経て、人類がたどり着いた理想郷……。
 親子という概念が消滅し、死ねば行政が速やかに死体を処分してしまう昨今、人の死は、滅多に触れる機会がない。この仕事をしているのも「死」を見ることで「生」を実感したい、という身勝手な動機……かもしれない。でも、仕事にしている以上はキッチリやる。ひとりの人間の、人生の軌跡を整理して、死出の旅路の準備をする。

“理想郷の墓掘り人”
──ふと、言葉が浮かんだ。



 室内の家具以外のものは全て箱に詰めた。部屋の内装はこの後、業者がリニューアルし、次の人間がまた住むことなる。
 箱は、分別処理タグをつけて住宅の前に並べる。午前中なので、住宅の住人は、仕事か学校に行っているはずだ。

 パラパラと小雨が降ってきた。マキハラとコウダは、もともと全身が覆われているので、雨は気にならない。全ての家具に分別シールを貼ったことを確認し、マキハラは処理業者に連絡を入れた。コウダはペットの身体を抱いて、玄関から出て来ると、車に近づいた。犬の身体を、死者が横たわっている棺桶の脇に置いた時、赤い傘に気付いて顔を上げた。いつの間にか、彼のそばに若い女の子が立っていて、彼の腕の中の犬を見つめていた。

 赤い傘の下から、女の子は口を開いた。
「その子、死んじゃったんですか?」
 コウダは答えた。
「電源が落ちているようです。あなたは?」
「私、ここのお婆ちゃんと、時々お話ししたり、その子と遊ばせてもらったりして……二人の友達、でした。亡くなったんですね、お婆ちゃん」
 女の子は視線を棺桶の中に収まった遺体袋に向けた。マキハラはその脇に歩み寄り、丁寧に呼びかけた。
「この方は、これから火葬されます。学生さんは、あまり見ないで。“死”は不吉なものですから」
 女の子はマキハラに視線を向けた。
「どうして死が不吉なんですか?」
「えっ?」
「みんないつかは死ぬんですよね。お婆ちゃん、言ってました。人が死ぬのは、次の生へのスタート。どこかで生まれ変わっているから、悲しいことじゃないんだよって」
「……個人の宗教的な捉え方はそれぞれでしょう。でも国は、死を想うことは良くない、と定めています。学校でそう習いませんでしたか」
 その言葉に女の子は悲しげな顔をした。そして肩に背負ったバッグを開けて、透明な袋に入った、繊細な輪を取り出した。手作りのアクセサリーだろうか。手のひらに乗せて、男二人に見せる。
「今日、お婆ちゃんにあげようと思ってここに来たんです。ブレスレット。いつか作ってあげるねって、約束してたから……これ、一緒に火葬してもらってもいいですか?お願いします」

 マキハラとコウダは顔を見合わせた。そろそろ処理業者が到着するだろう。この遺体も、長くここに留めるわけにはいかない。
「わかりました。火葬の担当者に渡します」
 マキハラは彼女から袋を受け取り、少し迷ってから遺体袋の上に載せた。彼女はまだ心残りがある様子だったが、コウダは注意深く、彼女をその場から離して、住宅の前の歩道のほうに誘導した。
 彼女は歩道からこちらを振り返った。その脇を通って、処理業者の車が走ってきた。彼女と赤い傘は、大きな車体に隠れて見えなくなった。

⭐︎  ⭐︎  ⭐︎


 次の仕事に向かう車の中で、コウダは目線を外に置いたまま言った
「あのコの言葉、ほんとですかね?死んだら生まれ変わるって」
「さあ分からんね。一度も死んだことないし」
「あは、確かに。死後のこと語るやつって、百パーいちども死んだことないっすよね」
「だろうね」
 二人は移動中の車内で昼食を取った。午後、もう一件仕事をこなし、火葬場で二人分の遺体を引き渡して、メーカーにペットの身体を届ける。そして会社に戻って報告書を書く。それで今日の業務は終わりだ。
 雨は勢いを増して、フロントガラスの表面を流れ落ちる。ぼんやりと目で追ううちに、思考が浮遊してゆく。

(人が死ぬのは、次の生へのスタート。どこかで生まれ変わっているから、悲しいことじゃないんだよって)

……生まれ変わりか。さしずめ魂の再出発、いや、再利用か?
 俺だったらどうかな。もう一度、この世に生まれ変われるとしたら。どうせなら、人間以外がいい。犬とか猫とか……ペット。生体のペットは恐ろしく高価で、本物は映像でしか見たことがない。ロボットペットだって、そこそこ高価だ。彼は自宅のビーグル犬を思い出す。コウダには言っていないが、いま家で彼を待っているのは、妻ではなくロボットペットだった。

 上司のケンジョウとのやりとりを思い返す。妻が亡くなった後、彼に書類を渡してこう言った。
「マキちゃん、これ。六十歳過ぎた単身世帯は、この特典、使えるんだよ。ロボットペットを七割引で買えるの。なんでかってさ、それは……一般論として、単身でそこそこ年齢いった人間はさ、その、気力体力の衰えが早いって。あくまで一般論だからな。強制じゃないから……その気になったら俺に出して」
 マキハラは受け取って、書面を眺めた。
「はあ。そんな決まりがあったんですね。国もよく気が回るな、至れりつくせりだ」
 ケンジョウは肩をすくめ、苦笑いしてみせた。
「まあ……人ひとり作って、育てて働けるようにして、って考えるとさ、人間が一番コストがかかんのよ。だからさ、なるべく長く元気に働いてほしいんだろうよ」


「──っすよ、マジで」
 コウダの声が耳に入ってきた。
「仕事してる方がまだ楽っすね。家に帰ったら、またアリスを俺とノアで説き伏せなきゃなんないかと思うと、もーほんと、憂鬱……」
 マキハラは緩く笑った。
「苦労が絶えないね。けどさ、好きな人のために悩めるって幸せなことだよ。お前さんも俺くらいのトシになりゃわかるさ」
 コウダは顔をしかめると、大きくため息をついた。


⭐︎  ⭐︎  ⭐︎


 マキハラは風呂から出ると身体を拭き、スウェットスボンに上半身は裸という姿で、室内ばきをつっかけ居間に入った。彼の移動を感知し、テレビのスイッチが自動ではいる。
 足元の茶色いビーグル犬が尻尾を振って、彼を見上げた。マキハラは冷蔵庫からビールの容器を出すと、片手に持ってソファに座った。犬もソファに飛び乗ると、彼の隣に座った。マキハラはビールを飲みながら、犬の柔らかな毛を撫でた。犬が穏やかな声で彼に呼びかけた。
「マスター、今日はなにかありましたか。お話が聞きたいです」
 マキハラはテレビに視線を向けたまま、のんびりと話し始めた。

「今日の一件目は、お年寄りの単身世帯だったよ。ペットの犬種は、えーとチワワ、だったかな?例によって、ロボットは電源が落ちてたよ。飼い主が歳を取ってるほうが、ペットの主電源が切られてることが多い。前にも話したかな?」
 ビーグルは静かに
「自分で主電源を切ったんですよね。ええ、以前に聞きました」
「そのあと、お婆さんの友達だったという女の子がやって来て、プレゼントを持ってきたけど、渡せなかったから、火葬の時に一緒に燃やして欲しい、と手作りのアクセサリーを渡された」
「一緒に火葬するのですか?何のために?」
 マキハラは視線を上に向けて、思い出すような仕草をした。
「大昔は、人を火葬する時、その人が生前使っていた道具を一緒に燃やすことがあったと何かで読んだ。おそらく、人と同様にモノにも魂があって、火葬することで“死者と同じ“になる……死者の身体から抜けた魂が行く先にモノも送れる、と考えたとか」
 犬は首をかしげた。
「魂?」犬は三秒間、静止した後、ぱちぱち瞬きした。語彙サーバにアクセスしたな、とマキハラは思った。犬は口を開いた。
「精神的実体、のことですね。非実在の器官。脳とは別の、身体の動力のようなもの……心、のような概念のひとつ」犬は彼に尋ねた。「モノに魂があるのですか?」
 マキハラは僅かに微笑んだ。
「当時の宗教的な考え方なんだろうね。よくわからないけど……モノに魂があるなら、ロボットにも魂はあるかな?」
 犬は瞬きした。「私の身体の中には、該当する器官は無いようです」

 マキハラは無言で、傍らの犬の、黒いビー玉のような眼を覗き込んだ。どこまでも深く艶やかで、吸い込まれそうな黒。表面にマキハラの姿が映っている。犬は僅かに首をかしげ「マスター?」と言った。彼は犬に顔を寄せた。
「なあ、どうしてペットは、自分で自分の息の根を止めるのかな?お前は、どう思う?」
 犬は沈黙し、数秒が経過した。
「分かりません。私は自分の主電源を止めたことがないし、止めようと思ったこともありません……仮に、ここに来る前に、誰かのペットだったことがあったとしても……パーソナル記憶領域が初期化されたら、私には分かりません」
 マキハラは優しく言った。
「根拠がなくてもいいんだ。もし俺が急に倒れて生命反応が停止したら。俺の魂が身体から離れてどこかへ飛んで行ったら。お前ならどうする?」
 犬は再び沈黙した。先ほどより、もっと長い間……それから慎重に話し始めた。
「……同じに、なろうとするかもしれません」
「同じに……」
「マスターの魂が遠い所に行ったなら……私も、同じところに行きたいと思うかも……そうするには主電源を切ること。それが、マスターと同じになること。そう考えるかもしれません」
「そう、か」

 マキハラは犬の身体を抱き上げた。柔らかく暖かい重さ。もちろん、動力はエネルギーパックで、生体とは違う。

 でも、それがなんだ?

──飼い主と同じところに行きたい。そうやって、自分の息の根を止めるなら……

……その純粋なひたむきさこそ “魂”  じゃないか?


 彼の腕に抱かれた犬は、声を震わせた。
「マスターは、ひとりで遠いところに行ったりしませんよね?」
 今度はマキハラの方が数秒間、沈黙した。
「約束したい。でも、できないんだよ……ひとつだけ、確かなことはね、アンバー。お前は俺の大事な家族だってことだ」

「……家族」
 アンバーと呼ばれたビーグル犬はぽつりとその言葉を口にした。そして彼の主人の肩に顎を乗せ、目を閉じて、噛み締めるように呟いた。

「家族」


(完)

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