思考と発見

ぽつりぽつりと雨が降る
ぼくはさっと傘をさす
ポツポツポツ
パチパチパチ
ザーザーザー
ぼくは雨は嫌いだ
だって濡れたくないから
ポツパチザー
何だか楽しくなってきた
ポツパチザーザー
ポツポツポッポッポッ
雨が止んだ
楽しくなってきたのに
もう止んだのか
通り雨か
たまには雨もいいかもな
ぼくはそっと傘をたたむ
サッサッサッ

第6回のテーマは思考と発見です。
誰だって雨には濡れたくない。
傘をさすのは当たり前。
当たり前なんでしょうか。
どうやら日本人は傘が好きなようです。
一人当たりの傘所持数は世界一なんてデータもあります。
世界でも傘を使いますが、55%が折り畳み傘を使っているようで主流のようです。
ほう君は傘好きなのかと言われると別にそんなことはありません。
ふと思っただけです。
ちなみに傘は5世紀後半から6世紀に朝鮮半島から「蓋」(きぬがさ=絹を張った長柄のかさ)が伝来したといわれています。
濡れたくないから傘をさす、道具の使い方について何も疑問に思いません。
私たちはそれを知っているからです。
濡れない術を知っているのです。
ただの濡れないようにするための道具でしかないのです。
さてここに思考はあるでしょうか。
いやいや、雨が降ってきたのを認知して傘をしているのだから思考をしているだろう。
思考とは考えること。経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせること。「―を巡らす」「―力が鈍る」とあります。
ではなぜ濡れるのは嫌なのでしょうか。
それも知っているはずです。
濡れると乾くまでに時間がかかるから。
濡れると体温が奪われて寒いと感じるから。
濡らしたくないモノをもっているから。
色々なことが考えられます。
それは経験によって知ることになりますし、雨が降ったら傘をさすということを私たちは覚えます。
では視点を変えましょう。
雨は悪でしょうか。
恐らく違うと答えるでしょう。
雨は大地に降り注ぎ、川となり、また作物を育てます。
木や花や農作物も雨が降るから育つのです。
そのことを私は知っているはずです。

私たちは日々あらゆる情報を目にして耳にしています。
そう私たちは日々考えています。
コンピュータとネットワークの発達で昔では比べ物にならないほど、情報を得ることが容易になっています。
嫌でも情報に晒される時代になっています。
有益な情報なのか、その情報は本当なのか私たちは情報リテラシーが求められています。情報リテラシーとは「情報を適切に判断し、情報を通じて決定を下す能力」と定義されます。
この情報社会では有益な情報をいち早く手に入れて決断の速さがモノをいうでしょう。
では加速するこの情報社会で私たちはどうしているのか。
「すべてはネットに答えがある。」
自分だけではわからないことは誰かが発信しているはずです。
誰かの助けを得て日々それを活用しているのが現状です。
誰の迷惑もかけずに誰の時間も奪わずに情報を得ることが出来るはずです。
いつでもどこでも情報を得られるいい世の中になったと私は思います。

私は人に聞くのが苦手でした。
なぜなら人に聞くのは「そんなのものも知らないのか」「時間を奪っているのかもしれない」「聞くより調べた方が迷惑を掛けない」とまあこんな感じです。
調べれば大抵のことはネットに書いています。
ますます人に聞くのが億劫になります。
正解を知らないのは恥ずかしい。知らない自分は恥ずかしい。
しかし、知らないのは当たり前です。
だって「知らない」のですから。
当たり前のことで何を言っているんだと思うかもしれませんが、社会では一般常識でも自分自身は知らないということはたくさんあるのです。
なぜ知らないのか。
興味がない。知る必要がない。忙しい。誰かが知っているしその時に覚えればいい。いろいろあるでしょう。
そうすると知らないことは恥ずかしいことではないですね。
だって知る必要がないので。
それでも恥ずかしい。じゃあいっそのこと全部知ることが出来れば恥ずかしくないのか。きっと無理でしょう。全部を知ることは人間である以上は無理です。
恥ずかしいとは自分の欠点・過失などを自覚して体裁悪く感じるさま。面目ない。「成績が悪くて―・い」「字が下手で―・い」という意味です。
全部を知ることが出来ないのに恥ずかしいと思ってしまうのは誰しも感じてしまう感情でしょう。
話を戻しましょう。正解のあることと正解がないことがこの世にはあります。正解があることは事実としてそうであるか否かということにおいて合っているか間違っているかということです。
1+1=2は多分合っているでしょう。
でも、正解がないことの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
雨は悪でしょうかという話を冒頭にしましたが悪だと思う人も中にはいるかもしれませんし善だという人もいるかもしれません。
それは自分にとって悪かもしれませんが、他人にとっては善なこともあるのです。ただなぜ悪と思ったのかということを紐解くとさっきのようなことが思いつくでしょう。
なぜそう思ったのかということをふと考えると自分の考え方や思考の癖にも気づけるかもしれません。
冒頭の詩では傘を差した彼はもう止んだのか、楽しくなったのにと思っていました。そこで彼は発見したのでしょう。雨の音に。何だか雨の音って同じじゃないんだな。傘をはじく音が面白くなってきていますよね。
それはその彼がたまたま感じただけじゃないかと思いますが、そうなんです。たまたまなんです。

私たちは文字を情報と考えがちですが、リアルに生活している世の中は情報だらけです。この文章を見ているスマホやPCだって情報です。普段通勤や通学で見ている景色も情報です。情報に埋もれるとそこから有益な情報を得る必要があります。私たちはとても忙しいのです。
忙しいと心を亡くします。


 今ここにある情報をしっかりと見て、これは確からしいという自分の中で納得するようにして情報を取捨選択していくことでその情報は価値を生み出します。有益とは損得だけではなく自分が納得するかということも含まれます。損得だけで生きることは出来ないはずです。人間は合理的な生き物ではないから。
 もう一つ。情報を得るということで取捨選択していますが知らず知らずに情報を遮断しているはずです。情報を遮断することで余裕が生まれます。一つ一つの情報に対する判断や考えが至ります。
 あと一つ。日々考えたり、経験をしているからこそ、「あれ?」となることはあるでしょう。同じことを日々考えていたり、経験をしていると人は考えます。「何でこの仕事してるんだろう。」「何でこの勉強してるんだろう」余裕がなければ考えられません。
考えてる暇があったら行動や働くという人もいるかもしれません。
しかし、そこに楽しさはありますか?楽しく生きた方が人生得ですし、何より自分のためにもなります。それが人のためになるかはどうかは別として、それが地味だって。

たまには雨もいいかもな
そう思えるようになりたいものです。

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