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自然の中を歩くこと

八時起床。
ちょうどいい気温。
窓の外からは登校する小学生たちの明るい声が聞こえる。
コーヒーを飲み、仕事をする。

昨日は休日だったので、一人で河川敷を歩いた。
家の最寄駅から電車で数分の距離に、大きな川が流れている。
河川敷、という言葉から連想されるのどかで広大な光景を見にいくことができる。
昨日のお昼すぎに、ただひとり、ただ歩いた。

その川は川幅が広く、そこから堤防となっている舗装された道までの距離もかなりあり、全体に草木が生い茂っていて豊かな自然の風景を感じることができる。
堤防の道には一定の間隔で石の階段が設けられており、その草原の地帯まで降りて歩くこともできた。

より自然を感じたいと思い、私は階段を降りて草原を横断して、川の付近まで近づいた。
そして川に沿って歩いた。
草を踏んだり、玉砂利のような石を踏んだりして歩いた。
舗装されていたり、舗装されているとは言えないけど通った人の跡によって歩きやすくなった道を歩いた。
たまに釣りをしている人を見かけたり、犬の散歩をしている人とすれ違う程度で、人はかなり少なかった。

心が和む、良い時間を過ごせた。
広大な自然の中で一人になる時間を作るのは、とても大事なことだなとこの頃常々感じている。
このごろつねづね。

自然の中を歩くと、常に好奇心が湧き、工夫しようとする思考になる。
見渡せばそこかしこに不思議な植物や生物がいて興味をそそられるし、どのような経路で歩けば効率よく周れるかとか、花の綺麗な写真を撮るためにはどの角度から撮ればいいかとか、工夫する。
適度に身体を動かしながら、自分の興味が向くことに没頭できる。

これが大変気持ちいい。
他のことを忘れられる。
植物から出るマイナスイオンがどうとか、川の流れる音の周波数がどうとか、科学的なリラックス効果みたいなことはわからないけど、嫌なことを忘れて身近なものに没頭する時間を過ごせるのは、自然の中を歩くことで実感できる良い効果だ。

リハビリ、という言葉が頭に浮かぶ。
なんの怪我も精神疾患も経験していない。
それでもこれがリハビリテーションの一環だと思い至るのは、日々の暮らしで感じる些細な不安感や苛立ちが蓄積して、浄化とか治癒のようなものを求めてしまっているからだろう。

休みの日の行動として、友達と飲みにいくとか、異性とデートをするとか、家でゲームをするとか、Youtubeを見るとか、そういうことで精神に溜まった老廃物を取り除けるならそれもいい。
でも、それだけでは発散しきれないものがあると思う。

そうした場合に有効なのが、自然の中を歩く、ということだ。
人工のものに囲まれた暮らしの中にあっては、広大な自然の風景が非日常になってしまっている。
日々の仕事や生活の中で溜まったものは非日常でこそ発散できるのではないか。
人間関係も社会構造も人工建築物もすべて離れてみてこそ、発散できるものがあるのだと思う。

昨日は広大な自然に触れて、今日はパソコンを使って仕事をした。
ネットを繋いで、キーボードを叩き、イヤホンをつけて、モニターと会話をした。
草原を歩き回り、花に心躍らせ、風を感じて、川を眺めた、昨日を懐かしく思う。


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