実家にいます
都内から実家に避難して10日が過ぎた。実家の暮らしはとても健康的だ。飲まずにはやってられない日が年間250日あると豪語してやっていたワインのガブ飲みもしていないし、寝ているだけでちゃんとした食事が出てくる。猫もいる。
詳細は割愛するけれど、今月頭に精神的にかなりショックな出来事があり、そのストレスで体のあちこちがボロボロになってしまったため、実家で過ごしているのだ。縁起でもないことを言ってしまうと、あの精神状態で一人暮らしを続けていたらセルフネグレクトのようになって、身の回りのことを何もできずに孤独死していたかもしれない。だからこそ、母親の「一旦帰ってくれば?」の一言に救われたような気がした。帰ってからも過呼吸やら離人感やらでさまざまな体調不良に悩んだが、ある日を境に記憶が曖昧になって(思い出すことを脳が拒否してくるのかもしれない)、ぼんやりと暮らしている。一人でいた時は風呂も入らず食事も取れず、冗談抜きで一睡もせずに8時間ベッドに横たわっているような暮らしだった。問題は東京に戻ってきた時にそんな生活に逆戻りしないかで、心に依然として残っているトラブルの種を消化できるのか、気持ちを切り替えられるのかがネックになってくる。問題の原因はわたしにあって、さらに言えばわたしの体調にあるのだから、わたしの体調不良が起こしたトラブルのストレスでまた体調不良になるという悪循環を起こしかねないのだ。
寛解という二文字が大きく遠ざかる。何度も死ぬことを考えた。人が自死を選ぶ時、最も大きな心情は罪悪感で、その次が恥らしい。絶望は意外と高くない場所にあるという。確かにわたしは世の中の多方面の人々に身を切られるような申し訳なさ、つまりは罪悪感を抱えながら生きて、泣いて、浴びるほど酒を飲んでは泥酔して息苦しさと共に全部吐いて、吐き疲れて寝る。子供であれば叱ってくれるような問題や欠点も、大人になると誰も何も叱ってくれない。急速に熱が冷め、それまで培ってきた日々などなかったかのように突き放され、いつの間にか孤独になっている。その都度一人きりの自己研鑽、あるいは終わりのない堂々巡りの自己嫌悪と反省あるのみなのだ。それが社会的動物として生きるということなら、わたしはいない方がいいレベルの欠陥だらけの存在だし、どこにいてもどこに行っても突き放されて孤独になるのがオチなのだ。
元気な頃、趣味は原画蒐集とカフェ巡りとお絵描きと自称していたが、どれもコスパを考えたら悪すぎる。手元に残らないし、残るとしてもただそこにあるだけで溜まっていくばかり。だとすればコスパやタイパの充実した趣味とはなんなのだろう、と考え出すと止まらなくなる。答えのない自問自答。前はメンタル回復のためによく筋トレを勧められたものだが、あらゆる問題や困難を全て筋肉に頼ろうとする風潮がわたしは好きになれなくて、勧められれば勧められるほど食わず嫌いになっていく。
このまま生きていて、わたしはわたしでいられるのだろうか?自業自得とはいえ、あらゆる発作に耐えて、トラブルによる精神的苦痛や困難を咀嚼して嚥下して、それでもなおわたしはわたしなのだろうか?そう考えているうちに秋も深まってきた。また鬱の診断書を職場に提出する。
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