父の逝き方
父が逝って9度目の4月が終わろうとしている。
4月のうちに父の最期についての記事を投稿したいと思いながら、溢れるものが多すぎて何をどう纏めていこうか思いあぐねて今日まで来てしまった。
60年も生きて来たのに、8月31日に慌てて読書感想文を書いている子供のようだが、100点満点だと思った父の逝き方を記しておこうと思う。
父が入院したのは、2014年の節分の日だった。
数年前から透析をしていた父だったが、特に寝込んでいた訳でもなく、週に2回の病院通いをしながらも静かな余生を送っていた。
そんな父が具合が悪くなり入院をした。
診察の結果は
「おそらく肺癌だと思われますが、高齢なので詳しい検査まではしないでおきましょう」
とのことだった。
そして、肺癌は脳に転移しやすいので、急に話せなくなる可能性があることも告げられた。
父、83歳。平均寿命も越えている。
私自身も充分いい歳になり、いつ親が亡くなっても驚かないと思っていたのだが、急に父と話せなくなる日が近いことが現実味を帯びて迫って来た時、やはり涙が溢れて仕方なかった。
その頃の勤務先は、家から車で50分ほどの距離にあり、病院は家と勤務先の中間地点くらいにあった。
父が入院して以来、仕事帰りに病院に寄ることが日課になった。
父は昭和5年生まれ。
14歳で予科練に行っていて、特攻隊として出撃の日を待っていた。
子供の頃から幾度となく聞かされた話は少し自慢話も混じっていて、自分が優秀だったために検査に合格して予科練に入隊できたと話していた。
本当はもっと深い事情があったことを、私はこの2ヶ月間の病院通いの間に知ることになる。
「心配しなくてもすぐに良くなる」と私に言ってはいたが、父は間違いなく死期を悟っていて、「お前にだけ戦争に行った本当の理由を教えてやる」と真実を話してくれたのだと思う。
この「本当の理由」についてはまた別の機会に詳しく書かせていただこうと思っている。
大工だった父は「頑固な職人」のイメージがぴったりの人だったと思う。
子供の頃、師範学校に行くつもりで勉強していたのだが、父親が早くに亡くなり、その夢は途絶えたと言っていた。その後予科練に志願してるのだから父の学歴は尋常高等小学校中退だった。幸いにも出撃の番が回ってくる前に終戦となり戻ってきた父は、今の中学2年生の歳から自分の親の跡を継ぐ形で大工になって家計を支えて来た。
私は子供の頃、父が大工というのが嫌だった。
スーツにネクタイ姿で出勤するお父さん像に憧れていた頃だった。
「先生になってくれていた方が良かった」と何度となく言っていたと思う。
でも、父が亡くなる前に、「本当は大工さんで良かったと思っているよ」と告げなければと思った。幼い頃の私の言葉などきっと覚えてもいないだろうのに。
「息子が中学生だった時にPTA新聞に載せた作文があるから読むね」
父のベットの横で短い作文を読んだ。
それは「子供に伝えたい話」という内容で、子供の頃、真っ黒に日焼けした父の姿が格好悪いと思っていたが、腕のいい大工さんと呼ばれていた父親が本当は自慢になっていたことを綴っていた。
精一杯の照れ隠しでそんな形でしか伝えられなかった。
泣き声にならないよう少し戯けながら子供みたいに読み上げると
「上手に書いたなあ」
と、父は目を細くして笑ってくれた。
私は二人の兄を持つ三人兄妹の末っ子として育った。
長兄が両親と同居してくれており、次兄は大学入学と同時に家を出て40年近くが経っていた。
大企業で働く次兄は、年に何度か家族を連れて帰省するたびに両親にたくさんの手土産と手紙を添えた小遣いを渡していた。父が亡くなった後、この手紙の入った封筒はひとつ残らず保管されていたのを長兄が発見している。
車で4時間はかかるところに住む次兄は、父が入院してから、毎週日曜日に必ずお見舞いにやってきた。
父が望むことを全て探り出し、その全てを叶えようと必死になっているようにも見えた。
曲がったことが大嫌い。常に真っすぐ生きることしか知らないような兄が、父のために人目のない公園で桜の一枝を手折り病室に持って来た時には心底驚いた。兄もこの残された時間を必死に悔いなく過ごそうとしていた。
入院してひと月半経った頃、
「高齢なので容体は年単位で悪くなっていくでしょう。このままこの病院にはいられませんので転院をしていただきます」
と説明を受け、おそらく長期戦になることを告げられた。
転院先はすぐに決まった。
透析を受けながらという条件が付くので選択肢も少なかった。
その病院は私の勤務先の目に前にあり、私としても都合の良いところだった。
ここで兄二人が金銭問題で意見をぶつけ合うことになる。
「遠くにいて何もしてやれない自分に病院代は負担させてもらう」
「とんでもない。そのくらいのお金は親の預金で払えるし、長男の自分が払う」
こんな喧嘩聞いたことがない。
同じ子供でいながら私はちゃっかり対岸の火事気分でいたが、この兄たちの妹であることが心底誇りで嬉しかった。
結局、長兄に内緒で次兄は転院先の病院に通帳と印鑑持参で引き落とし手続きをしてしまった。病院側もまだ入院もしていない患者の手続きはしたことがないと言っていたが、遠方からわざわざ来たことを理由に無理矢理手続きをしてしまったのだ。
その直後、父の容体は急変し、転院することはなくなって、手続きも無駄に終わったが、私しか知らなかった次兄のこの行動を、私は母と長兄、そして父の墓前に報告をした。
我が家の宗教は、この地域では数少ない天理教だった。
祖父が天理教に婿養子として入ったのだが、病気で嫁が亡くなってしまって戻ってきたときに、宗教も一緒に持たされたと伝え聞いて育った。
なので半ば仕方なく自分の家の宗教としていたようなところがあり、信仰心のかけらもないような父だった。
それでも毛嫌いするわけでもなく、行事には必ず参加し、淡々とこなしていたのではないかと思う。
驚いたのは、この天理教の会長さんは、入院している父の病室に毎晩お見舞いに訪れてくれて、一心に何かを唱えて帰って行った。父はそれを心待ちにしていたようで
「今日は会長さん遅いなあ」
などと言う日もあった。
やはり死期が近いと何かにすがりたくなる気持ちが生まれるのだろうかと思って見ていたが、深々とお礼のお辞儀をして会長さんを見送ったあとぽつりと言った父の言葉は
「あんなので治る訳がない」
だった。
父の頭が少しもぼけていないことが確認できた一言だった。
幸いにも最期まで脳に転移することはなく、父は父らしく時に毒も吐きながら過ごせていた。
それでも、「どの神様にも頭を下げて罰が当たるものじゃない」と広大な心(?)を持った宗教観だったと思う。
父は元来とても無口な人だった。
それが入院中の2か月は一生分喋ったのではないかと思うほどよく話をしてくれた。離れていた時間を埋めるように、特に私と次兄に対しては饒舌だったと思う。
「育てたじゃない、育ってくれただ」
「三人ともええ子で幸せだった」
「女の子は頭がいいより気立てがいいほうがいい。お前はええよ」
そんなことを驚くくらい優しい顔で言ってくれた。
人の死期は潮が引く時。
迷信と思われるかもしれないが、やはり満潮に子供は生まれ、干潮に人は亡くなっていく。
父も干潮には容体が悪化し、それを乗り越えると少し持ち直すような状況だった。
次兄も、干潮の時刻を気にしながら病院に張り付いていた日曜日、「今度の干潮を乗り越えられたら一旦帰るわ」そう言っていた。
状態も安定して、このまま乗り越えるのではと思っていたのに、干潮が近づくにつれて呼吸が途絶える時間が長くなり、本当に潮が引くように静かに息を引き取った。
連れ合いである母、子供たち、孫とたくさんの親族に囲まれてみんなが揃うのを待っていたような最期だった。
入院期間2か月。
その間に伝えたいことを伝え、伝えさせ、誰にも思い残すことがないように逝った。
しかも日曜日の午後という全員が集まれる日を選んだように。
父の最期に関して
「死に様は生き様」
と言ってくれた人がいた。
父の「逝き方」は、見事な「生き方」そのものだった。
残された家族に一片の後悔も感じさせないものだった。
コロナ禍以降、病院での面会も難しくなっている。
父の時は面会も看取りも家族の思うままにできて幸せだったと今あらためて感じている。
まさかその数年後に次兄が父を追って逝ってしまうとはこの時思ってもいなかった。
コロナ禍真っ只中に入院していた兄の時は後悔しか残っていない。
父の時は二人して
「100点満点の逝き方だったね」と言っていたのに。
お国のために命を捨てる覚悟だった14歳の少年の決意は叶えられなくてよかった。
そのあとの70年、父は苦労もしただろうが幸せな人生を送ってくれたと信じている。
残された家族が笑顔で故人を思い出すことができるのは、その人が幸せいっぱいの人生を生きていたと確信できることではないだろうか。
父は父の人生を力いっぱい生きていた。
私は父が建ててくれた家に住んでいる。
こうして形になって残るものがあって大工さんは本当に
いいなあと思う。
「ありがとう。私、本当に大工の娘で良かったと思ってるよ。
そっちに行ったときに、幸せいっぱいの人生だったよって報告するからね」
人はなかなか自分の最期を決められないだろう。
でも願わくば父のように、周りの人に一片の悔いも感じさせない逝き方ができたらと願う。
そのために、今、私も毎日を楽しく生きていることをここに記しておきたい。
これも私なりの終活なのである。
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