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諦めなければ新しい自分に出会える。在り方を教えてくれたのは旅でした

過去に虐待を受け、今を強く生きていく人たちを発信していくインタビューメディア「RASHISAストーリーズ」。第6回目は、田中 慧さんに登場いただきました。
虐待や家族の死、自身の発病など、いくつものハードルを乗り越えてきた田中さん。何度も挫折を経験しながら、その度にどうやって苦境を乗り越えたのでしょうか?

田中 慧|茨城県出身。現在は早稲田大学に在学し、教育や心理学を学んでいる。TABIPPOの「世界一周コンテストDREAM」で2019年度最優秀賞を受賞。趣味の旅行ではアジアを中心に各国を回っている。
Twitter:@vacilando_0910

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【兄の遺したサッカーだけが生きがいだった】

――早速ですが、どんな幼少期を過ごしましたか?

父母と兄、姉、僕の5人家族で、小学校一年生に上がると同時に両親は離婚しました。父が兄たちへ暴力をふるうことが多く、それに耐え切れずに僕も含めて母親に引き取られた形です。

――その中でも印象的だったことはありますか?

特に姉を殴ろうとしていた時に、兄が咄嗟に庇って暴力を受けていたことをよく覚えています。母もすごく泣いていて、小さいながらに胸が苦しかったです。警察と救急車を自宅に呼んだあの騒然とした空気は今でもトラウマですね。

――想像するだけでも恐怖が伝わります。お父さんの暴力に引き金はあったんでしょうか?

恐らく、お酒に溺れたことだと思います。仕事は長続きせず、いつも転々としながら生活していました。これは最近知ったことですが、父は多額の借金を背負っていたそうです。暴力はその腹いせの一つだったのかもしれません。

――ご両親が離婚したあとは気が楽になりましたか?

そういうわけでもないですね。母は僕たちを育てるために昼夜問わず働いていたし、兄弟とも年が10歳近く離れていたので、小学生の頃は家に一人でいることが多くなりました。みんな少しずつ前に進んでいるのに、自分だけが取り残されているようで辛かったです。

――孤独を感じることが多かったのですね。

そういう状況だったので、次第に「みんな自分に興味がないのでは?」と思ってしまうようになりました。話したくても誰も家にいなくて、寂しかったです。でも、今振り返ると、「生活リズムが合わないんだから仕方なかったんだ」と納得できています。

――そのような生活が続いたんでしょうか?

離婚後の約1年間です。兄が僕にサッカーを勧めてくれてからは、すっかりのめりこみました。クラブチームにも通い始めて、ボールを触ることが当時はとても楽しかったです。

――サッカーのおかげで気持ちが晴れていったということですか?

サッカーは好きだったんですが、クラブチームのコーチが厳しくて辛かったですね。当時は体罰の規制がなかったこともあり、指導という名目でかなり殴られました。そんな環境のせいもあり、10人いたはずの同期が気が付いたらみんな辞めちゃって、自分だけになってました。

――田中さんだけ!?よく続けられましたね。

実は僕も辞めようと思っていました(笑)。コーチだけじゃなく、下級生からも外見のことでいじめられていたので。でもその矢先、僕にサッカーを勧めて兄が心臓病で急死したんです。その日はサッカーの試合で、母に送り迎えをしてもらう予定でした。なかなか起きない兄を心配した母が部屋を覗いて、もうその時には息をしていなかったようです。姉が救急車を呼んで、脈を測った時にはすでに亡くなっていました。僕は急な展開にただ立ち尽くすだけでした。

――急逝だったんですね。田中さんの精神状態は大丈夫でしたか?

当時は実感が湧かなくて、お葬式でも泣くことができませんでした。それでも兄のことが好きだったので、勧めてくれたサッカーだけはちゃんと続けていました。後になってクラブチームの月謝を出してくれていたことも知って、本当に感謝しています。

――お兄さんがきっかけで始めたサッカーが心の支えになっていたのですね。

はい。そのおかげで、中学校でもサッカーは続けました。ですが、高校時代に大きなターニングポイントが訪れました。高校一年生のときに、僕も兄と同じ心臓病になってしまったんです。お医者さんから「もうサッカーはできない」と言われて、地獄に突き落とされた気分でした。

――生きがいだったサッカーまで急に失ってしまったんですね…。

今まで辛いことがあってもサッカーのおかげで生きてこれたので、「それすらできないならいっそ死にたい」と思いました。でも、そんな僕を立ち上がらせてくれたのはサッカー部の先生でした。心臓病のことを打ち明けたら、「マネージャーをやらないか」と声をかけてくれたんです。唯一の居場所がサッカー部だったので、居場所が奪われないことにとても安心したのを覚えています。

――ご家族は発病に対してどう思っていたんでしょうか?

心配していたのかもしれませんが、再婚相手の父からは病気を抱えながらサッカーをすることを否定されました。僕は発作が起きたことがなかったし、どうしてもサッカーと離れたくなかった。父と僕と先生の3人で面談をする機会があったのですが、僕をマネージャーとして迎え入れたいという先生の希望を「こいつにできるわけがない」と一蹴りされてしまったんです。

――ということは、田中さんはマネージャーを諦めたんですか?

いえ、先生がその時、「お前がやるかやらないかだ。他人の意見に惑わされるな。やるなら面倒を見る」と僕に言ってくれたんです。初めて自分と向き合ってくれる存在に出会えて、僕は感無量でした。その時から、サッカーに頼らずとも自立できるようになりたいと思い続けています。

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【インドの家族が教えてくれた自分の在り方】

――現在は世界一周旅行を計画されていますが、これまでも旅はされてきたんでしょうか?

大学一年生の頃からフィリピンをはじめ、ネパールなどアジアや国内を回っていました。もともと旅を始めたのは「自由になりたい」という一心です。それまで色んなことに縛られてきたので、自由を強く求めていましたよ。

――インドではどんな経験をされたんですか?

実はインドが初めての一人旅でとても怖かったです。でもそんな気持ちはすぐになくなりました。道で一緒に遊んでいた子供たちが僕に向かって「カモン、カモン」と手招きして、自宅まで案内してくれたんです。まるで古くからの友人のように接してくれました。

――すごい!インドの子供たちはフレンドリーなんですね。

さらに、その家族もとても親切で、初対面の僕を夜ご飯を誘ってくれました。見るからに貧しそうなお家なのに、料理もご馳走してくれて、本当に嬉しかったです。その後は砂漠にベッドを置いて星を眺めるという経験もさせてもらいました。

――出会って間もないのに、かなり打ち解けましたね。

僕もなんでこんなに親切にしてくれるのか気になって、唯一英語が通じるお兄さんに聞きました。すると、「あなたは家族だから」と言ってくれたんです。聞いた瞬間涙がブワッと溢れてきて、「誰かに愛されたい、認められたい」ともがいていた自分が肯定された気がしました。

――そんな経験をすると、旅が好きになる気持ちも分かります。

これ以来すっかり旅に魅せられました。旅の道中では何を選択するのも自由だし、ルールもありません。生きている手応えを感じられるのが旅の良いところです。世界一周の旅でもインドの友達に会うことを約束しています。

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【大丈夫。諦めなければ新しい自分に出会えるから】

――世界一周の旅が終わった後のキャリアは決まっていますか?

正直、まだ未来のことは分かりません。でも、人生を通して生き苦しい人を救える存在になりたいと思っています。大学二年生の時に自己嫌悪に陥っている僕を「そのままの自分でいいんだよ」と抱きしめてくれた人がいました。今まで後ろめたく思っていた出来事も全て話したんですが、否定せずに受け止めてくれました。心の重りがスッと消えていくような感覚でしたね。

――確かに、自分が認められない部分って誰しも持っているものですよね。

過去のことをツイッターで発信し始めてから、僕宛てに共感の声が届くことが増えました。生きづらさを感じていることってなかなか相談できないんですよね。その人たちに寄り添えるような発信をし続けたいです。

――最後に、同じように虐待で悩んでいる方へメッセージをお願いします。

自分ではどうしようもない過去や出来事を自分だけで抱えて、結果的に自己嫌悪している人っていますよね。でも、どんなに辛くても諦めないで欲しいです。僕が新しい世界に出会えて救われたように、誰しも克服できるきっかけがあると思います。とはいえ、僕も現在進行形で悩んでいる仲間です。葛藤する様子も隠さず発信するので、辛くなったら僕を見て勇気をもらってください。とにかく諦めないことが大事です。

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取材/岡本 翔
文/キムラアヤ
編集/角田尭史
撮影/Christina/ くりす

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