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『知的生産の技術』レビュー

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『知的生産の技術』

梅棹 忠夫(著)

温故知新です。
なんと初版が1969年。
半世紀以上前に、京大式カードシステムを生み出した梅棹忠夫先生が、個人が知的生産を行うための方法・技術について書かれた本です。

知的生産というと、今でこそプログラミングやテクニカルライティング、デジタルデータ作成なんかが頭に浮かんできますが、なにしろ50年前ですから、当時はコンピュータなんて黎明期もいいところ。当然個人では使えっこありません、パーソナルコンピューターなんて影も形もなく、あるのはせいぜい巨大な卓上計算機だったような時代。
キーボードから日本語を打てる環境なんてあるわけがないのです。

そんな時代に、まだ概念もなかったであろう情報コンテンツ(知的生産物)の生産手法についての考察と、実際にやってみたノウハウや試行錯誤の顛末が書かれている、大変興味深くて面白い本です。

なにしろ当時は日本語自体が大きな変化の真っただ中にありました。
元はほぼ漢文だった明治のころの漢字だらけの楷書が、言文一致体となり、カタカナと平仮名の配分が増え、ようやく横書きの書き方が一般化してきたぐらいの頃なようです。
本文でもあたりまえに「履歴書にはまだ毛筆をつかう文化が残っている」とか書かれています。毛筆じゃないと失礼にあたる世界だったようです……恐ろしい(お習字苦手><)

そのころに、知的生産、つまり情報処理について先見的で深い考察をされているというのはなんというかもう。さすがです。

具体的な手法は、最初に述べたような京大式カードシステムに代表される「カード式」の情報整理術。KJ法で有名な川喜田二郎先生もご友人だったようで、ちょこちょこ本文に登場します。お互いに情報共有・交換されて、まさに知的生産の結果、こうした手法が編み出されていったのでしょう。

そのあたりは川喜田先生の『発想法』(これも良い本です)を見ていただくとして、本書で面白いなというか興味深かったのは、当時の情報に対する考え方、それも欧米との比較です。

日本の手紙はまだ「毛筆が丁寧」だった時代に、欧米はもう完全にタイプライターが主流になっていて、ペンはサインを入れるぐらい。手書きなんて逆にほぼなかったそう。(毛筆なんてそもそもないですよね。欧米で筆といえば絵を描く絵筆。です)
タイプライターなら、カーボン紙を挟むことで、打ち込みながらオリジナルの紙と一緒にコピーが取れます。(いわゆるCC、カーボンコピーですね)
手紙をタイプすると、同時にコピーが取れる。これがどれだけすごいことか。(もちろんコピー機なんてなかった時代ですよ)
この、情報は保存しておき、後で利用できるようにするという考えが、海外ではすでにごく一般的だったのに対して、日本では成果物は残しても過程の情報などゴミ同然。取っておくなんて(場所が?)「もったいないから」と捨ててしまっていたわけです。(そもそも手書きでは書き写すのも大変)
情報処理の基本の基本、最初の一歩目からもうはるかに立ち遅れていたことが(今なら)わかります。
そうしたことを、当時の日本人で、しっかり理解されて、しかも、どうしたらよいか、と手法を考え、実験し、実践されていたわけです。

実際、当時ようやく日本にも普及し始めた英字タイプライターを梅棹先生も使いこなされていて、(最初はタイプライターはその印字の美しさに魅かれて導入したと言われていますが)
やっぱり日本語が打てないので、日本語をローマ字で打ち、手紙も何もかもローマ字で統一してちょっと変人扱いされていたそうですw

※その後、カタカナが打てるカナ文字タイプライターや、ひらがなが打てるかなタイプライターも考案し、実際に導入されています。

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↑今見ると可愛らしい日本語(かな)タイプによる手紙ですが、これが時代の最先端なのでした。
本文の前に宛名や日付を入れたり、最後に署名などを入れる「手紙の形式」=テンプレートという考え方も当時日本には全くなく、各自ばらばらでその都度てきとうな手紙の書き方をしていて、まるで整理ができていなかったそう。(そもそも分類・整理しようという考えが日本にはなかった)

たしかに、フォルダにファイリング、なんて言葉自体日本語にありませんもんね。
欧米の真似ではあるけれど、こうした細かいところを深く思考(と試行錯誤)されていて、本当に頭が下がるのです。

そんな古い時代の本を今さら読んだって意味ないんじゃ? なんて読む前はちょっぴり思っていましたが、全然そんなことはなく、今でも十分通用する技術と、思考のエッセンスが詰まっている本なのでした。

そして、50年たってもあいかわらず情報の処理が下手っぴな日本人にあーあとおもうところしきり><

先生も、

 情報の管理は、物質の管理とは、原理の違うところがある。「もったいない」と言う原理では、動かない。さまざまななかたちの、あたらしいしつけが必要だ。《略》
 今日までのしつけや教育は、物質の時代にはうまく適合していたのであろうが、新しい情報の時代には不適当な点が少なくないであろう。情報の生産、処理、伝達について、基礎的な訓練を、小学校・中学校の頃から、みっちりと仕込んでおくべきである。《略》
 (未来の小・中学校では)わたしはやがては「情報科」と言うような科目を作って、総合的・集中的な教育を施すようになるのではないかと考えている。

と書かれています。ようやく大学で聞くようになってきた情報科学科、もっともっと「しつけ」レベルの小学校などでやるべきでは。と、半世紀前から先生は言われていたわけですね。。

一時はバブリーに隆盛を誇っていた日本の情報産業の最近の衰退っぷりを見るに、こういう「しつけ」レベルの基礎の基礎の情報教育がおろそかになりつづけていたからなんじゃ、という気がしないでもないところです。

最初に書いたように「温故知新」。
今こそ、基本に立ち戻って、このあたりから見直してみるのは良い機会なのかもしれません。

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情報カードについては

↑で詳しくご紹介していますのでこちらもどーぞ♪

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