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【ちょっと上まで…】〈第四部〉「セイコ」

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〈第四部〉「セイコ」

〈ラウンジ〉

 成層圏界面を滑るように飛ぶ亜軌道船(エクラノプラン)〈バイトアルト〉。
 地球を覆っている厚い大気の層は〈バイトアルト〉のすぐ下にある。宇宙線の衝突で帯電したうすいガスや微粒子ははるか前方から高速でたぐり寄せられ、艦底をかすめてまた後方へ飛び去って行く。巨大な船はちょうど水面を跳ねる飛び石のように圏界面にかすかに触れ、大気層表面効果と電磁気力、重力のせめぎあいで生み出されるエネルギーによってごくわずかに反発加速し、ほんのすこしだけ浮き上がる。そしてまた、界面にそって惑星規模のゆるい山なりのカーブを描き、次に大気に触れる時に備える。この微細で壮大な反復によって巨大構造物は圏界面に浮かぶ〈船〉となるのだ。
 ここはその〈バイトアルト〉艦内の船首側ラウンジである。
 大きな窓の外、頭上に広がる漆黒の宇宙空間と、眼下へ、見た目上はゆっくりと足元に吸い込まれていく美しく青き地球の円弧(アーク)は、リリク達が見たものとほぼ同じ光景だった。
 ただし、時代は、あの時よりさかのぼること約17年前、リリクが生まれるすこし前のことである。夜側の地上各地に散らばる都市から発せられる光は、リリクの時代よりもはるかに多く、強い光だ。もし彼女がこの光景を目にすることがあったなら、宇宙の星々と同じ光が地上にもあると錯覚したかもしれない。
 〈バイトアルト〉も昨年から就航し始めたばかりである。亜軌道上を周回しつつ建造され、そのまま就航。同時に軍に接収されることが決まったのだが、まだこの段階では軍に完全には移管してはおらず、半分は民間の手で運用されたまま大気圏の上界面を滑空し続けている。
 当初の民間船計画よりはシンプルに変更されたものの、旅客も考慮された艦船向けの、ホワイトを基調としたトーンで統一された美しい装飾を残す内装は、特に女性の乗組員には大好評であった。

 そんな、美しいラウンジの中央付近、床に固定されたテーブルに向かい合って座る男女がいた。
 ボブカットの茶髪に丸顔、幼く見えるのが本人にとっては若干のコンプレックスではあるものの、いちおうは一人前な新米士官として乗艦しているセイコ。
 今日は薄いピンクのトップスに淡いベージュのタックパンツ、そしてイミテーションパールのネックレス&イヤリングという完全な私服姿。めったにない非番を楽しもうと、それなりにあでやかな(セイコ個人の評価です)装いでコトに及んだのだが、相対する男性は民間人のくせにカーキ色のフライトジャケットと黒パンツという実用一点張りのニセ軍人スタイルだ。
 ─── これじゃ、どっちが軍人だかわからないじゃない。
 ネックレスなどは低重力(ロージー)環境だとふとした拍子に浮き上がってしまうため、正直言って邪魔になる。そんなアクセサリーはいつもならばまずつけないのだ。
 鏡の前で選びに選んだイヤリングまでわざわざしてきたのに。ひとことぐらいほめ言葉があってもバチは当たらないだろうにと思うのだが、男は窓の外の見慣れた景観は絶賛しても、女にかけるほめ言葉はないらしい。
 セイコが不満げに、ちょっとだけ唇を尖らして、もうおしゃれなんてしてやるもんかと心に誓いながら前を見れば、丸太のような太い首と四角い頭、出来の悪いアニメの悪役のような外見。だが、それにそぐわぬ人懐っこそうな黒い瞳とばっちりと目が合ってしまった。不意をつかれ思わずドキッとして、一瞬前の誓いなど忘れてしまう。
 この男、タケオは、決して見目麗しいタイプではないはずなのに、なぜだか妙に気になってしまうのだ。なぜだろうなぜかしらといくら考えてもセイコの頭ではその理由にたどりつくことが出来ない。
 目が合い、鼓動が速くなったセイコの気持ちを知ってか知らずか、タケオはそのゴツイ顔で微笑みかけてくる。
 口の端をすこしあげて、妙にニコニコしている。これは共犯者を勧誘している表情だ。厳つい顔からのギャップは本当に犯罪者に見える。
(そ、その顔、私の前では良いけれど、ほかでやったら通報されますからね!)
 まったくもう。と思いつつ、ちょっと赤くなる顔をごまかすよう、これ見よがしに溜息をついて、セイコはけん制をする。
「なにか持ち掛けられる前に、先に言っておきますけど、きっとダメですよ。軍規(ルール)に違反することは出来ませんからね」
「ふふん、違うな」とタケオはさらに得意な表情を見せる。
「違反するんじゃない。抜け穴をさがすのさ」
 人差し指をあげ、くるくると回すと、彼は面白いいたずらを思いついた少年のように笑った。

 ◇ ◇ ◇

 セイコの両親は、特に世間体を気にする夫婦で、何事に対しても世間一般の常識に倣って生活していた。
 父の口癖は『普通が一番』であり、母の行動原則は『皆さんに合わせましょう』だった。
 よく言えば協調性があり、悪く言えばまったくの没個性。そんな一般市民の一家として、ごくごく普通に暮らしていたのだ。
 世界情勢と言えば大げさになるだろうか、世間がきな臭い雰囲気につつまれ、だんだんとこの国全体が戦争を意識しだしたころ、セイコは自分から進んで軍の技士官学校に進学していた。
 両親と世間の、暗黙であるけれど強い勧め、若い力は国を守るために使うべきである。そんな無言の圧力(プレッシャー)に逆らうことが出来なかったのだ。とはいえ、もちろん先頭に立って人殺しなどはしたくはない。なので、技士官の道に進んだ。
 航空航宙技官、パイロット検定ではB判定だったものの、その他の技能で優秀な成績を収めたセイコは、そのまま定められたレールに乗り、艤装(ぎそう)技師兼航宙技仕官として〈バイトアルト〉に赴任したのだ。
 すべて、親や先人に決められた人生であり、なにも疑うことなどなくそれが普通のことだと思っていた。
 ずっと、ルールに逆らわず、決まったレールに乗った生き方をしてきた。
 そんな彼女が、なぜだか初めて好きになった男性は、破天荒な生き方をしている子供のような人だった。

出会い

 男は、軍艦になる運命の〈バイトアルト〉に必須物資・人員を運搬輸送する業者で、地上との連絡用シャトルロケットの操縦担当者だったのだが、あろうことか軍用品は運べないと言い放ち、軍関係者を困らせていた。
 ちょうど今も、ラウンジで軍の男と口論をしている。
「今更そちらさんが勝手に決めたルールに従えと言われてもね。ウチのロケットは軍品は請け負わんよ。最初からそう言っている。軍には高々度用の機体があるって話だったんじゃねえのか?」と、深く太い声。
 ずいぶん低い声だな。というのが、セイコが彼に持った第一印象だった。
「ファック! そりゃ戦略偵察機の話だ。腹ぼて輸送機がズーム上昇なんぞ出来るわけねえだろ! このご時世に私企業がワガママ言ってんじゃねえぞ!」
 口汚く応じる軍パイロットの方は見知った相手、ゴウ・キタガワ。のちに軍をやめ、ゴウ・イシヅカと名のることになるのだが、この時点ではセイコと同じくその未来を知るものはいなかった。
 対する民間人の、声だけは良い男はタケオ・カミヤマと言った。ロケットは彼の住む『村と家』(コミューン)の物で、家訓で軍にはかかわってはいけないのだそうだ。
「はん、こちとら民間人なんでね。あんたらの機密なんざ知るわけねえだろうが。それにな、私企業かもしれんがあのロケットは村のもんなんだ。オーナーの意向には逆らえんのよ。それともなにかい? 軍隊サマお得意の力づくで言うことをきかすってか?」
 と言って、腕をまくり上げる仕草をする。
「なんだとぉ? 優しくしてりゃあ良い気になりやがって、ファッキン! やろうってのか?」軍の男は立ち上がり、タケオを見下ろし睨みつける。両の目が怒りに燃えていた。
「なにが優しくだ。まったく口が悪い軍人だな。ふん、ゲンコツでならいつでも相手になるぜ!」
 タケオもゆっくり立ち上がり、組み合わせた手の関節をボキボキと鳴らして臨戦態勢を取った。
 血の気の多い男達である。
 それにしてもまだ半分民間船とは言えいちおうは軍艦に乗り込んできて、堂々と軍隊の批判をするなんて命知らずな。いけ好かない奴。と、セイコも最初は思っていたのだった。
 端くれではあっても士官として、見てしまった以上は止めなくては。両者の間に割って入ってその場の騒動を諫め、民間人の男を後日呼び出して事情を聞いてみることにした。
 セイコとしても、予定していた資材が届かないのも困る。
 民間船時の契約はそのまま軍が引き継ぐルールになっていることを説明した上で、ビジネスも軍の保護下になれば特権的な立場にもなれ、多くのメリットがあることを説明して考えを変えてもらおうとしたのだ。
 しかし、あっさりと男は断ってきた。
「願い下げだね。どうせあんたら軍人が決めたルールだろう? 軍の事情が変わったらルールだってすぐ変わっちまうよ。絶対に破れない物理法則ってルール以外は自分ン所(うちんとこ)の事情が優先だ」
 自分の所、彼の村のルールが優先ということか。ルールは大きい方、力の強い方が決めるもののはずだ。軍のルールが小さい村の事情で変わるとは思えない。
「我々のルールが変わることはありません。貴方の言ってることはナンセンスですよ」
 男は、「まさか本気でそう思っているのか?」とでも言うように目を丸くして言った。
「おいおい、あんたらが正義って呼んでるルールだって、国が違えばまったく逆になるわけだろ? 敵国にとっては良いも悪いも正反対だ。今この船はいろんな国の上をぐるぐるとめぐってるじゃないか。それぞれのお国のルールに本当に従えてるのかい?」
 考えてもいなかった点を突かれてセイコはすこし動揺する。
「こ、この船は国際法にのっとって運用されています」
 ゴツイ顔の男はにやりと笑い、
「そうか? だが、もう、ちょっと上までのぼったら、軍はこの船にいられないはずだよな」
 と、ちょっと上までと強調してタケオは頭上を指さした。
 そう、実は、彼の言うとおりなのだ。成層圏上層を超える、具体的には高度120kmを超えた衛星軌道上ではいっさいの物理的な軍事行動は行えないことになっている。現在の国際的なルールでは。
 そして、領空侵犯とされる高度の取り決めは国際航空連盟によって50ノーチカルマイル(約92・3km)までと定められている。
 〈バイトアルト〉はその両者の間、高度93km~120kmの隙間をはみ出さないよう慎重に軌道が操作されていた。
 セイコ自身も、その航法の為にここにいると言って良い。

 下にも上にも、どちらへ行っても違うルールの世界がある。それらのルールは人間が決めたもので、どちらにとっても別々の正義がある。そう男は言っているのか。
 今まで信じていた、ルール通りの生き方というのは場所が変わると違ってしまうのか。言われてみれば当たり前のことだが、セイコにとっては斬新な考え方だった。

 自分の考えを開示するように両手をひろげ、男は続ける。
「もちろんルールは必要だよ。考えなしにそのルールを妄信するのがいけないんだ。人生にはいろんな壁がある。どこかへ行きたいのに邪魔をする物理的な壁、そんなこと出来ないっていう精神的な壁、それは許されないという社会的ルールって壁。それぞれの壁のプレッシャーを受けて、押しつぶされちまう人生もあるだろう。ただ、押し込められた圧力が高ければ高いほど、その壁を乗り越える時の、ブレイクスルーする力はすごい。内燃機関のエンジンだって、圧を高めた方がパワーが出るだろ? ロケットだって、高圧であればあるほどノズルから噴き出すエネルギーは爆発的なパワーを持つのさ」

 学生時代に工学分野で学んだ力学と精神論とが奇妙な相似形を見せ、セイコはなんだか不思議に思う。
(そうか、私がこの道、技士官学校に進んだのも、軍隊に入らなければというプレッシャーと、人殺しをしたくないという感情(きもち)がぶつかり合って、抜け道として選択した結果なんだわ。世間に合わせるのが親の教えだったけれど、世間知らずなのは私だったのかも?)
 民間人の男に、そこを指摘されたのだ。きっと笑われると、身を固くして黙り込んでいると、意外にもタケオは一席ぶったことを照れ臭そうにして頭を掻いている。
 そして、「実を言っちまうとコレ、親父の受け売りなんだわ」と白状してきた。
 その、まるで似合わないのにちょっと恥ずかしそうにしている表情を見て、あら、なんだか可愛い。と当初とは正反対の印象を持ってしまったセイコである。
 村長であり発明家だというタケオの父は、一般や普通とはかけ離れた、そうとう変わった人物のようだ。
「良いお父さんなんですね。楽しそうなお家」
 セイコは、私の生家とはだいぶ違う家なのね、ちょっとお会いしてみたいかも。と思った。

 ◇ ◇ ◇

 艦内の自室に据えつけられたデスクに向かい、出会った当初のころの思い出にひたり、静かに微笑むセイコ。
 今、退任手続きの書類をしたためる彼女の左手の薬指には、真新しい指輪が光っていた。

 ──第一印象は最悪だったのにね……。あんな奴の子供を授かって、軍をやめることになるなんて、最初はちっとも思ってなかったわ……。

 母体が笑ったことがわかるのか、お腹に宿る新しい命も喜んで元気に動くのが感じられる。
「ふふふ、パパみたいね。元気な子」
 きっとわんぱくでいたずらっ子に育つだろう。タケオの家の周りは田舎だが雄大な自然に囲まれたとても良いところだと聞く。そこら中を毎日元気に走り回って、新人の母親をてんてこ舞いさせるに違いない。それもきっとパパゆずり。お友達とはしゃいだり、喧嘩したり、大きな声で歌ったり騒いだりするだろう。
 ─── ほとほと困らされて、『おだまりなさい!』なんて叱っちゃうかも。
 今までの自分では考えられないような言動だ。母になるってこういうことなのか。
 まだ見ぬ未来に思いをはせ、刻一刻と、お腹の子を中心にして自分自身が変化していくことがわかる。
 心配したり、くよくよしたりもする。けれど、それよりもずっと大きな幸せと暖かな気持ちが、まるで潮が満ちるかのようにゆったりとセイコを包み込んできた。
 ─── これから、戦争が激しくなるかもしれない。でも、それでも幸せはつかめるわよね。あの人と、この子と一緒なら。
 そっとお腹に手をやったセイコは「たとえ何が起きても、この子を無事産んで、育てるんだ」と心に誓う。
 出産は地上で。というのが夫(タケオ)の希望だった。ここの低重力(ロージー)の方が妊婦にはありがたいのだが、幼児の成長も低重力下では悪影響があると言われている。わがままを言ってぎりぎりまで上で暮らさせてもらったけれど、そろそろそれも潮時だ。前回のシャトル便で妊婦用の耐衝撃パッドも持ってきてもらった。出来ればタケオを待って一緒に降りたいが、それが出来るかどうかは彼と地上行き便のスケジュールがあうかどうか。微妙なところだ。
「パパはお仕事大変なんだって。もう、ゴウさんに連れてってもらっちゃいましょうかねー」
 夫の喧嘩友達の軍パイロットの名前を出してお腹に話しかけ、一人(ともう一人)でくすくすと笑う。
 たとえようもなく、完璧に幸福(しあわせ)なひと時だった。

 ◇

 しかし、その幸せで暖かな時間は長く続くことはなかった。
 突然に、なんの前触れもなく、床から突き上げられる衝撃が彼女を襲い、耳を聾する轟音と閃光が世界をかき混ぜ、圧倒する。
 後にスマート・ボム・インシデントと名づけられる事象の余波が、セイコの視界と意識を無慈悲に奪い去っていった……。

スマート・ボム・インシデント

 その瞬間、デジタル・ネットワークとあらゆる賢い(スマート)コンピュータ群が一斉に動作を停止した。
 地上のいかなる安全装置、予備機器も用をなさず、世界中の電子機器は一瞬にして硬直し、コンピュータの動作を前提にしている復旧措置もまるで役にたたなかった。
 ミリ秒単位の緻密さで連携し流動し続ける大都市の血流、通信・交通・経済・インフラ網がひと時に凝結する。
 血流の止まった都市群に隣接するパワープラントが心不全を起こす。多くの発電所で事故が起こり、火災・爆発が発生。送電はストップ。玉突き事故のように電力に依存する都市の各部で安全回路が遮断され火の手が上がる。
 商用のネットワークとは独立しているはずの軍用回線も例外ではなかった。
 突然の通信途絶、エネルギー供給の停止、それら緊急事態の兆候は敵対国からの無差別電磁攻撃を示唆していた。
 通常であればコンピュータ・ネットワークを駆使し情報を検討するはずの軍情報部は目耳をふさがれた状態で身動きすら出来ず、なにが起きているのか、誰にも正確なところはわからなかった。

 そして、多くの国はその敵対国に対して、我先に《報復》を開始する。

 もちろん、コンピュータによる情報支援は行えない。全体像がまったく見えないまま、前世紀のような泥臭い戦闘が各地で同時多発的に発生。
 瞬く間に世界は火の海に飲み込まれた。

 〈バイトアルト〉の状況も最悪だった。艦首に作られた優美なブリッジ ── 曲線でデザインされた清楚な空間 ── も無骨な非常灯の赤い点滅に照らしだされ、さらに内部では男達の怒号が飛び交っていた。
「くそっ! 状況が見えん! 電源(パワー)はどうした? センサー復帰まだか?」
「ダメです、レーダー、センサー、通信、メインコンピュータ反応なし、電子機器ほぼ全滅! 外部はもちろん艦内通信も出来ません、今、我々に見えている目視情報以外なにもわかりません!」
「目で磁場が見えるわけないだろう!! とにかく非常用電源おこせ! これだから民間船は困るんだ!」
「軍用もダメです!! 第三までの非常用給電システム沈黙、復帰しません! 電磁制御ドライバ反応なし、姿勢制御出来ません! ベクトル・ポイント・ロスト、本艦は現在漂流しています!」
「スラスタ制御不能! オートクルーズ動作していません!!」
「いかん、このままではドリフトがおこる! なんとしても主電源を復旧させろ! 沈んじまうぞ、このデカブツが!!」

 〈バイトアルト〉を不安定な軌道に定位させている超電磁圧航法には、航路上電離層の正確な把握と電磁気制御が欠かせない。通常はドップラーレーダーによる観測とコンピュータの高速な空間演算で近距離予測を行い、地球の裏側のような観測地平線の向こう側の情報は地上局や衛星リンクを使った通信ネットワークで予測対応を行っていた。
 位置と潮流の観測手段を失った船は目隠しをしながら嵐の中を全力疾走するようなものである。ちょっとした地磁気や荷電粒子の波にも翻弄されてしまう。しかも、この〈船〉は音速の10倍以上のスピードで波乗りをしているのだ。次の波を見極めることはまさに死活問題なのである。
 もし直交する電磁場の流れを読みそこない、横波にさらわれるようなことがあれば、姿勢を崩した巨船は濃い大気の海に沈み、飲み込まれ、あっという間に分解し摩擦熱で燃え尽きてしまうだろう。
 見た目は悠然と宙に浮かぶエクラノプランも、自然界の波の影響を全く受けないわけではないのだ。

不幸と幸(さいわ)い

 セイコはひどい吐き気と全身の痛みで目覚める。そして、自分の苦しみよりも驚きで叫び声を……あげようとした。
 ずっとお腹にいて、共に生き、育んでいた小さな命。その感触がしないのだ。意識が戻ると同時にパニックにおそわれる。
「──わたしの、わた!」叫びは舌がもつれてうまく言葉に出来ない。
「気が付いたかね?」
 すぐそばでドクターの声がして、天井方向に固定されたセイコの視界に白衣の袖が入ってくる。たしか軍の予算でサルの知性化研究をしていた男だ。
「赤、ちゃ……ん、は?」
「落ち着いて。お腹の子は大丈夫だ、丈夫な子だよ。安心しなさい」
 しかし、落ち着いてなぞいられない、お腹にいるはずの、我が子の命が感じられないのだ。
 身を引き裂かれるような恐怖が襲う。
「大丈夫だ、とにかく子供は大丈夫!」
 知ったことではないが、なにか別に気になることがあるらしい、少々怒り口調のドクターに何度も繰り返されて、ようやく周りが目に入ってきた。
 ここは一体どこだろうか?
 ───〈バイトアルト〉の中、よね……?
 視界が薄暗い。照明が落ちているのか、ぼんやりと赤い点滅の光が見える。非常灯だろうか?
 お腹を守るように癖になっていた身の起こし方、ベッドの上でまず横に転がろうとして、セイコは再びパニックにおそわれる。
「か、身体が……」動かない!?
 子供の感覚がないのも当然、気がつけば全身の感覚がない。しびれるような重い痛み、はっきりと場所を特定出来ない鈍痛だけが身体に広がる。
 ─── 麻酔? うまくしゃべれないのもこのせい?
「なにがあったのか覚えていないかね?」
 最大の努力を傾け、なんとか動かせる首で震えながらうなずくセイコに、言い聞かせるようにドクターは、衝撃的な説明をしてくれた。
「君は運が良かったのだ。いや、どうかな、悪かったのかもしれないが……」
 どうやら彼女のいた個室を巻き込み、〈バイトアルト〉は敵対国の攻撃を受けたらしい。らしいと言うのはブリッジでも詳細がいまだにわからないのだそうだ。とにかくすべての通信とコンピュータが使い物にならないのだとか。
「医療班も困っているんだがね……。なにしろあの時、君のいたブロック近くで爆発がおき、かなりの、重篤な被害が出たのだ。そのうえコンピュータも通信も使えないと来た」
「通信、も?」
「ああ、そうだ。地上との連絡もまったくとれん」
 (それじゃ、タケオと話が出来ない……)
 セイコはお腹の子を守ろうとしたのか、丸くなっているところを発見されたのだそうだ。
「丈夫な子だよ。その子のことは安心したまえ」と医師は言い、「しかし……」と言葉を続ける。
「残念ながら、君は背骨が……。脊髄が損傷してしまっている。応急的に処置することはしたのだが……。申し訳ないがここの設備ではこれ以上は治療することは出来なかった。おそらくはこのまま半身不随になり、もう歩くことはかなわないだろう……」
 そう言いつつドクターが視界から離れ、扉側へ向かって行く、だれかを迎え入れるつもりだろうか。
「そして、今、ブリッジからの勧告で、君を目覚めさせたところだ。なんでも航海士の君の意見を聞きたいらしいな」
 ─── なん、ですって……。
 ショックのあまり口もきけない。
 うまくしゃべれなくてある意味幸いだった。
 何重もの不運とアクシデント、まるで現実感のない出来事達に呆然となる。
「うそ、でしょ……?」
「残念ながら事実なのだ。私の力ではこれ以上はどうしようもない。すまないが……」
 とドクターが振り向き答える気配がする。
 声の方を向こうとするものの、確かに、首から下は痛みこそあるが身じろぎをすることも出来ない。子供の無事を聞いて自分のことは麻酔のせいと当初軽く思いかけていたセイコだったが、これがずっと続くのかと考えると、やはりどうしようもなく暗鬱な気持ちになる。
 ─── 地上に降りても歩くことが出来ないなんて……。
 唯一の救い、無事だというお腹の子。必死の思いで首を曲げ、視界の下限に大きくなったお腹をとらえた。
 ─── 動かせない身体で、この子をどう育てたらよいのだろう。この子だけは、なんとしても無事に育てなければならないのに……。
 しかし、彼女に与えられた運命はさらに過酷だった。不幸中に唯一の幸いを見つけたその思いも、続けて病室に入ってきた艦長と航法チームの話で消し飛んでしまうのである。

「な! ドリフトをし始めているですって!?」回らないろれつでなんとか喋るセイコ。
「患者を興奮させないように」
 とっくに興奮する話を先にしていた張本人からいまさらな釘をさされつつ、セイコは航法班からの報告をうける。
 今、現時点でも、センサーもコンピュータもろくに使えない過酷な状況であること。謎の攻撃を受けた直後から航法班は不眠不休で〈バイトアルト〉を軌道に定位させてきたのだが、もう人力では巨体の動揺は吸収しきれず、このままでは抑えきれないであろうこと。そして、今、もっとも避けねばならないスピンが始まりつつあり、いつ何時ドリフト=横滑りに陥るかわからない。最高度の緊急事態なのだそうだ。
「なんてこと……」
 同じ言葉を今度は口にし、呆然とするセイコであった。

 機体の強度限界は横方向は大変低い。そもそも頻繁に向きを変えるようには出来ていないのだ。
 どれだけ眠っていたのかはわからないが、セイコの記憶の中ではほんのすこし前、彼らにならばもう任せて大丈夫。そう信じ、私は地上に降りて我が子を産んで育てよう。と、部下のスタッフに仕事を引き継いだ矢先だった。精鋭と信じていた航法チーム全員が匙をなげ、最後の望みで彼女の目を覚まさせたというのだ……。

「……私だって、コンピュータの助けなしではドリフトを止めることなんて出来ません……」
 ようやく口は動くようになってきたが、感情の針は振り切って、もう力なく皮肉に笑うことしか出来ない。
「文字通り手も足も出ないってやつね……」
 身体が動けば両手をあげてお手上げのポーズを取りたいところだ。
 せっかく無事だったらしい我が子。しかし、手足が動かなくなった不甲斐ない自分と、〈バイトアルト〉が重なって見える。
 船も彼女と同様に自ら動きを制御出来ず、このままでは天空の波に飲み込まれてしまうらしい。羽をもがれた巨鳥は成層圏で砕けて燃え尽きてしまうのか。
 ─── こんなことなら目覚めさせてくれなかった方が良かった。
 そう絶望する彼女のベッドを囲み、航法チームの皆が沈黙する。
 タケオならどうしただろう。四方八方から押し寄せる困難、逆境という「壁」に抜け穴を見つけることが出来るだろうか?
 ─── 私のことよりもお腹の子をなんとしても助けなければ。
 今どうしても彼と話をしたいと切に願うセイコ。しかし、地上と通信も出来ないという。
 一体どうしたら良いのか……。

「この高度で、本艦以上に安全な場所はないはずなのだが」
 航法班の報告の脇で押し黙っていた艦長の沈痛な声が響く。各種安全装置に守られた亜軌道プラットフォーム。一部では不沈空母とも揶揄されていた〈バイトアルト〉である。その声からは安全なはずの巨船を守り切れないくやしさがにじみ出る。
「すると……、この船は落ちると言うのですかね?」
 あらためて確認するようにドクターが口にする。
「言わんでくれ」と艦長。もはや誰が見てもこの船には未来がない。しかし、船乗りはあきらめるわけにはいかないのだ。と。
「ですが! もう手がないと今言っていたじゃないですか」
 誰も、この事態をどうすることも出来ないのか。
 再びの沈黙の中、ぎいい、ぎいいと船の構造材のきしむ音がする。平滑航行状態ではそんな音を耳にするはずがないのに。やはり、もう軌道がずれ始めているのか。その音は、まるで絶望にいざなう波音のように響いていた……。

「オチル! ナニカ? ナニガオチルナニカ?」
 沈黙を破り、突然舌足らずな高い声が聞こえた。
「パンドラちゃん?」
 方向はわかっても首が動かせないセイコの視界の外側に、ドクターの知性化実験動物がいた。一同の会話を聞いていたのだろう、沈痛な雰囲気を察してか言葉の意味をドクターに問いかけているようだ。
 ─── あの甲高い声、私になついてよくエサをあげた子ザル、パンドラに間違いないわ。
 パンドーラ。ギリシア神話で絶望の箱の底に希望を見つけた女性の名である。

 セイコは考える。
 どこを探しても絶望しかでてこない状況で、希望なんてものが今この船にもあるのだろうか……。
 絶望の底にあるもの。あの人は言った。『圧力が高ければ高いほど、その壁を乗り越える時の力はすごい』と。この絶望のプレッシャーに穿つ穴などあるのだろうか、希望の光はあるのだろうか?
 ふと、なぜパンドラなんて名前を実験動物につけたのかしらとの思いがよぎる。

 ─── なんで今そんなことを……。
 まったくこの事態に関係のなさそうな……。いえ、ちがう、もしかして……?
 ある考えが頭に浮かび、艱難辛苦の重圧に沈んでいたセイコの瞳にぼんやりと光が差してくる。
「ドクター? ところで、その子ですけど、なぜ本艦で実験をしていたのでしたっけ?」
 ふいに明るい声で問うセイコへ、
「なにを言っとるんだ。君達航宙班の航法支援用の研究だぞ。知らんはずもない」
 と憮然として答えるドクター。
「あっ!」
 ベッドの脇にいた航法班の男もなにかに気が付いたようだ。
「そうか! そのサル、自律航法コンピュータのかわりに航法管理システム(CMS)に接続出来ませんかね? 生体デジタル接続を使えば……」
 生体~デジタル間コネクト。生物の脳神経とデジタルコンピュータを結合する技術である。パンドラはそのための実験動物で、ハイコストな航法予測コンピュータの代替品として軍が研究を進めていたのだ。
「馬鹿なことを。計画の緒端についたばかりですよ。まだパンドラのIQは人間で言えば四~五才程度なのです。そんな幼児に巨人機の操縦など任せられんでしょう。基礎教育だけであと数年はかかるはずです」
「だからと言って、なにもしないわけにはいかん。このままでは遠からず本艦は沈んでしまうのだ。なんとか出来んかね」と艦長がひきつぐ。
「艦長のお言葉ですが、五歳児に超電磁圧航法を教えるのは無理です。あなた方、専門の大の大人が何人もかかって、コンピュータに助けられてやっていることをこのサルにやらせると? まずもって無理だ、不可能ですね」
 自分が話題になっているのがわかるのか、パンドラは「ナン? ナン?」と声をあげている。
 ─── 可哀想に、怯えているのね。
 セイコは動かない首を震わせながら言った。
「皆さん……ちがいます。パンドラじゃない。私、です。私なら、きっと、出来ます!」
「なんだって?」
「ナン?」とパンドラ。

 今、壁に小さな穴を穿った。
 言ってしまった。もう、あと戻りは出来ない。
 大きく息をすって、気持ちを整えてからセイコは言う。

「どうせ首から下を動かせないならば、私を、私を船につないでください。今の身体の代わりにコントロールしてみます。航法ならば……、私、専門、ですから」

 その場の男達に、ゆっくりと言葉の意味が染み渡る。
「たしかに、それならいけるかもしれんが……」
「そんなことをしたら、もう二度と。貴女は……」
「本当に、良いのかね?」
 彼らも希望の光を目にしたのだろうか。彼女の提案に驚き騒然とする部屋で、一人うなずいて目を閉じるセイコ。

 大丈夫、きっと、この壁は壊せる、この子もきっと無事に生むことが出来る。

 ─── タケオさん、私も、壁に穿つ穴(ブレイクスルー)を、見つけられたでしょうか?

〈つづく〉

―――

第五部はこちら

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