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SS・煙草物語・5/7【Marlboro LIGHTS MENTHOL】(1868字)

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大学を卒業した僕は海の無い県に引っ越し、飲食店を展開する会社で働き始めた。出社後、休憩中、退勤後に一服の、相変わらずのスモーキン’ブギ。「飲みにケーション」「タバコミュニケーション」などという時代錯誤な言葉遊びは好みではないが、その言葉の本質まではどうも否定しきれない。通常ならば言葉を交わすことのない上役と気軽に会話をするようになったのも、喫煙所ならではのものだろう。あくまで僕の場合の話だが、仕事上有利な立ち位置に身を置けたことに、煙草が一役買ってくれたのは間違いない。

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飲食店という性質上、僕が社員として勤務する店舗には多くの女性パート従業員が働いていた。子育て中の女性が多いことも影響していたのだろうか、彼女達のほとんどは非喫煙者。その中で唯一Kさんだけが、いつも僕の傍らで煙草を吸っていることに気付く。
当時僕は23歳。Kさんは8歳上の、ボブスタイルがよく似合う小柄な女性だ。僕の他に2人いる男性社員と会話しているのを見ることはあまりなかったが、煙草を吸うという共通点のおかげで互いが意識的に喫煙のタイミングを合わせるようになるまでに、時間はあまり掛からなかった。
社員が特定のパート従業員と親密になるというのは決して褒められた話ではない。まして彼女が既婚者ならば、なおのこと。その状況が明るみに出れば、バランスが取れなくなった店舗という組織は崩壊し、自身の社内的・社会的な立場も危うくなる。相手の配偶者から訴えられるなど、もってのほかだ。それでも「若気の至り」という卑怯な逃げ口上を胸に携えながら、僕はいつしか彼女と“良からぬ”関係になっていた。

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煙の香りというのは、時に雄弁だ。車内に残った煙草の香りで恋人の事を想起することもあれば、喫茶店の中に漂う残り香で先ほどまでいた客の特徴を想像出来なくもない。彼女との逢瀬を重ねるうち、あることが頭をよぎる。洋服に付着させて持ち帰った僕の煙の匂いのせいで、彼女が夫に疑いの目を向けられることなどあってはいけない。僕はそれまで吸っていたマールボロライトを、彼女と同じマールボロライトメンソールに変えた。我ながら狡猾であり卑怯者だと思う。そしてそんな人間には、やはり罰が下る。

僕に下った2つの罰のうち1つ目は、当時は苦手だったメンソールの煙草を今でも辞められない、という地味極まりないもの。あの時以来、普通の煙草が吸えなくなった。吸いたくなくなった。
2つ目の罰は、彼女との連絡が途絶えた事。僕が転勤で他県の海沿いの町に移り住んでしばらく経った頃、「旦那にメールを見られた。もう連絡は取れないけど、今までありがとう。大好きだった。」という主旨のメールを受信した。どうにかこうにか返信をしたが、僕が返したであろう内容はもう思い出せない。

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それからしばらく経ち、出張という形でかつての勤務先に出向いた時のこと。僕は一度だけ彼女と再会した。昔と同様に、いや、少しぎこちなく並んで一服した。ふと、彼女の煙草が細長いものに変わっていることに気付く。「変えました?」という問いに対する返答は少し意外なものだった。
「元々これだよ。あの頃あなたがマールボロライト吸っているのを見て、私が真似したの。でもメンソールは譲れなかったから、マールボロライトメンソール。そしたらあなたがさらにそれを真似してきたっていう。」
知らなかった。そして、何ということか。あらぬ疑いを掛けられぬよう頭脳派を気取り「僕が真似をした」と思い込んでいた煙草は、「僕の真似をした彼女の、その真似をした」煙草だった。そして、彼女の夫が妻の変化に気付くきっかけとなったのは「煙草が変わったこと」だった。それまで妻が吸っていたそれが今までとは違うものに変わったことで、彼は顔も知らぬ男の存在を疑い始めた。結果論ではあるが、僕がマールボロライトを吸っていたことが、回りまわって彼女との別れのきっかけとなった格好だ。煙のない所に疑念は立たぬ。別に煙草が悪さを働いたわけではないが、この時ばかりは手元の紙筒と漂う紫煙を、少しだけ憎んだ。自分の悪さを棚に上げて。

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再会の時に聞いた話では、夫からのお咎めはなかったという。不貞行為が徹底的に糾弾される昨今、僕のしたことは「若気の至り」で言い逃れ出来ることではないし、美化すべき話でもない。それでも、この恋は今でも僕の人格を形成する血肉となっている。煙草の銘柄が変わった今でも、メンソールの香りをまとう煙として僕の周囲を漂っている。


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