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「国」が必要なのは「感情」のせいだ! スピノザ『エチカ』第四部

スピノザの考える『国家』論

人間が、各々理性に従って
生活をするのなら
国家は不要である

特にルールを設けなくても
お互いに害を与えること無く
助け合って生きていけるなら
確かに、国は要らないように思う。

では、
なぜ国家は存在しているのか?
国家の役割は何なのか?

それが
『エチカ』第4部 定理37 備考2
書かれている。

要約すると、以下のようになる。

国家の無い、自然状態において
各人は、各々の独自の善悪に従う

もし、各々が理性に従って
生活するなら
お互いにお互いを害することはなく
各々に最大のメリットが得られる


しかし、人間は
内に秘める理性ではなく
感情の奴隷となってしまう生き物

感情の奴隷となると
互いに害を与え合う
にもかかわらず
お互いに助け合わないと
生きていけない

だから、
お互いに害を与えず
助け合う状態を作るために
感情を抑え込む仕組みが必要
になる。

その仕組みが国家であり
それが与える刑罰である。

感情は、より大きな感情でしか
抑えることができない。

誰かに害を与えたい感情より
自分が罰を受けるのが嫌という感情が
より大きい状態を作って
感情を抑制するのである。

この刑罰の仕組に服従すれば
国家の中で助け合いのメリット
得ることができるのである。

ここで一つ問題になるのは
刑罰の基準、つまり

国家にとっての
善悪はどう決まるか
ということだ。

人それぞれ善悪は違う

にもかかわらず、
統一の基準で裁くことになる

なので、絶対に
全員が納得いくものにはならない

あくまで
「一般的な」基準になってしまう
のである。

自分の善と国家の善が違う
ということが
当たり前に起こるということだ。

ここから言えることは何か

正義ならびに不正義、
罪過および功績は
外面的概念であって、
精神の本性を説明する属性ではない
ことが判明する。

正義も、不正義も
功績も、罪も
あくまで『国』の基準でしか無い

言いかえれば
絶対の正義も、絶対の罪も無い
ということだ。

先日、ニーチェ哲学における
「善悪」の話
をした。

行為自体に善悪があるのではなく
ただ、自分が属する集団にとって
得が大きいか、損失が大きいか
それだけで善悪が決まっている

という話だ。

今日の、スピノザの国家論は
それに近い
ものであることが
分かると思う。

あなたの『善』は
あなたが所属する集団の『善』と
同じだろうか?






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