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ニーチェの読書論 『ツァラトゥストラかく語りき』より

こんにちは、らるです。

今日はニーチェの代表作
『ツァラトゥストラ』から
読書について書かれた部分を紹介します。

 すべての書かれたもののなかで、わたしは血で書かれたものだけを愛する。血で書け。ならばわかるだろう、血が精神であることを。
 他人の血を理解することはたやすくできることではない。わたしは読んでばかりいる怠惰な者を憎む。
 読者とはどんなものかを知れば、もはや読者のために誰も何もしなくなる。一世紀もこのような読者ばかりがつづくなら──精神そのものが悪臭を放つようになる。万人が読むことを覚えるということは、長い目でみれば、書くことだけでなく考えることも損ねてしまう。
 かつて精神は神だった。それは人間になった。今や賤民にまでなりつつある。
 血と寸鉄のことばで書く者は、読まれることを欲しない。暗誦んじられることを欲する。

Kindle位置No.655

ニーチェはショウペンハウエルの影響を
強く受けていると言います。

これまで、
ショウペンハウエルは読書については
私のnoteでも紹介してきましたが
「最近の本は殆どがお金儲けのために書かれた悪書だ。悪書を読むな」
「古い天才の書いた本を読め」



というスタンスを取っています。

ニーチェはどう言っているかというと…

すべての書かれたもののなかで、わたしは血で書かれたものだけを愛する。血で書け。ならばわかるだろう、血が精神であることを。

ショウペンハウエルのスタンスに
通じるところがあるでしょう。

本当に書きたい事、書かずにいられなかった事

それが書かれた本だけを愛するというわけです。

著者の精神がこれでもかと込められていて
なおかつ、読む人にも響くものだけが
長く生き残ることのできる本になります

そして、ニーチェが愛するのは
そういう本だと言うわけです。

また、ショウペンハウエルのスタンスとして
もう一つ代表的なのが

読書は他人の思考を借りる行為であり
本当に大切なのは、あくまでも
自分で思索することである


というものです。

読んでばかりでは
自分で考える方法を忘れてしまう


とさえ言っています。

ニーチェの文章に戻ります。

他人の血を理解することはたやすくできることではない。わたしは読んでばかりいる怠惰な者を憎む。

この部分は、同じようなことを
ニーチェの言葉で書いたものだと
言えると思います。

「読んでばかりいるもの」は「怠惰」なんです。

他人の頭に考えてもらってばかり
ということです。

これは、さらりと読むだけの多読家を
戒めている言葉のように

私には感じられました。

血と寸鉄のことばで書く者は、読まれることを欲しない。暗誦んじられることを欲する。

読まれることを欲せずに
暗誦されることを望む

これはつまり
読んだ人の精神の一部になるくらいに
身に着けてほしい…

という事かと思います。

血、精神、魂を込めて書いたものだから
深くまで届いて欲しい

書く側はそういう気持ちをもって書け
読む側もそういう気持ちをもって読め

ということだと思います。

感想

正直なところ、今回紹介した文章は
私にとっては心の痛いものでした。


私自身、うわべだけを読むような
軽い読み方をしたり

読む人に合わせた軽い書き方をしたり

…ということを日頃からやっています。

もちろん、それが間違っているとは
思っていません

軽くでも読むことで得られるものはありますし
伝わるように書くことで
人の役に立てたと感じられることもあります。


ただ、そこから、本当の充実感…

ニーチェの言うところの
永劫回帰を肯定※できるような
強い幸福は得られないような気もしました。


※全く同じ人生を何度繰り返すことになっても
それを望むことができる…という状態が
ニーチェの理想とする「超人」の姿です

これからは、もっと心を入れて…
ニーチェの言うところの「血で書く」
ということを追い求めてもいいのかな
…と、感じました。



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