【愛するとは何か?考察5】その時「愛していた」は認められないのか?

愛するってどういうことなんだ?と考え始め、はや1年経つくらい。前にあげた考察1の中で以下のような回答があり、今更ながらもう一度考えたい。

「愛するというのは決断、判断、約束であり、「愛する」という力を実現し、集中する行為。」

これに対し、当時の私のコメントはこうだ。

少し難しい。愛すると決めた(決められた)のであれば、必ずやり遂げなければならないという感じか。「愛せなくなった」はそもそも「愛していなかった」の間違いであって、愛せないという気持ちは振り切ってそれでも愛することが「愛する」、と。確固たる意志を持って「愛する」必要がある。

この回答をくれた人は、愛に悩んだ人が辿り着く場所=エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読み、このような考えを持つことになったらしい。私はその本を読んでいないので、内容を詳しくは知らないのだが、一応調べはした。


ここにきて、急に疑問が出てきたのだ。

「愛せなくなった」はそもそも「愛していなかった」の間違いであって、愛せないという気持ちは振り切ってそれでも愛することが「愛する」
※これに関して反論が来ていなかったので、多分そのひとが言いたかったこととさほど変わりはないと思う。

これ。「愛していなかった」と気がつけるのは「愛せなくなった」と感じた時であって、「愛する」と決意したものは一生涯ずっとその状態を維持する必要がある。

もし、ある人の人生において初めての恋人を「愛する」として。交際期間中に事故で亡くなった場合は、初めての恋人に対し「愛する」をしていたことになる。しかし、そのある人が事故で生き延びたとして、そのうち初めての恋人と別れた場合、初めての恋人に対し「愛する」をしていなかったことになる。

つまり、これはタイミングの問題なのではないか?と。どこで終えたかに依存するんじゃないのか?と。また、その時は「愛していた」と言えるんじゃないだろうか?と。


友達やキャラクターや物など、いくらハマっていてもいつの間にか離れることがある。けど、当時は確かに「愛していた」と思うんだよな。でも、飽きることで、それは愛じゃないと言われてしまうならば、私は一生誰も何も愛せないんじゃないかと思う。それは何か違う気がするんだよな。




めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。