『本が読んだことがない32歳がはじめて本を読む』感想回

『本が読んだことがない32歳がはじめて本を読む』全部読んだ。あとがきまで読んで、すぐにでも何かを書かねばならぬと思って、普段キーボードを叩くような時間でもないのに、この文章を打っている。


雨穴さんの書き下ろし『本棚』を読む章を読んでいると、「体に染みついたすべての猫背が一気に伸びる」感覚がした。鉤括弧内はみくのしんさんの感想からの引用。使いたくて使ってしまった。こんな適切な言葉遣い、日本語を引っ張ってくる力が無かったら出てこない。みくのしんさんっていつも脳内でたくさん喋ってるから、色んなことを一気に言いたくて、ああいう記事のスタイルになるんだろうかな。その時の脳内を切り取って、素直に書いた文章や思った気持ちを捨てたくないのかな、と。自分の一部を形にしたのと同じことだから。

小説の作者の雨穴さん、読者のみくのしんさん、補助であり進行でありギャラリーでもある立場(をまとめて友達と言ってしまおうか)のかまどさんの三人のバランスが奇跡的に噛み合っていて、それでいて安定している。この関係性が愛じゃないなら何なんだ!全くよー、『走れメロス』の友情シーンで感じたことと同じ言い方しか出来ねえ。これでは昨日と話題が被ってしまう。


雨穴さんは優等生とかそういうのじゃねえな、と思った。そういうことじゃなく、合格ラインのもっと上の段階で整った文章を作っている。優等生を目指しているんじゃなくて、自分の作品をよくするために戦っている。天才とか優等生とか言うのは、ある意味でその人の心遣いや努力を無視する、理解しようとしない行為なんじゃないか。分かりやすいカテゴリに当てはめて自分の世界と分断する。

株式会社アラマ、デザイン業のかたわらスカーフ屋さんをやっている、の社長のTwitterが好きなんだけど、先日「最近一緒に働き始めてくれた若者が『全部を他人のせいにするのも自己中ですけど、全部を自分のせいにするのも自己中ですよね』って言ってて、めちゃくちゃ良いこと言ってるな…と思った。」と呟いていた。普段はもっと変なことをツイートしてる。「賛否のピ側」とか。

これもまた相手への理解やコミュニケーションを諦めている例だ。「自分を含めた人間全体を平らにしようとする勢力」よ、人間たちの凸凹を恐れないでくれ。


かまどさんのあとがきに、国語のテストで授業中に習っていない内容の自由記述問題が出て困ったって話があった。それと『本棚』の途中でかまどさんが「勉強で先に読書を知っちゃうと、『娯楽』として捉える機会を逃しちゃうのかもね。」と言っていた。

私が大学に入ってからこれに気付いて、なんだよ自分の解釈を否定しない国語って楽しいじゃん!ってなったんだった。それで塾講師をやろうという気になったんだ。国語のつまらなさは「正答」があるせいであって、文章を読むことは楽しいんだと言いたくて。

昔、勉強に対して「出来るものだとしても楽しいわけではない」と思ってたんだけど、これはテストがあって暗記しなくちゃいけなかったり、答えを定められてしまったりするせいだった。今だったら、新しいことを知る楽しさをちゃんと味わえる。正確な知識も本やインターネットなどの自分の脳とは別の場所に置けて、調べれば出てくるから楽だし。授業を受けて分かるのと暗記するのって別だよな。

そう考えると持ち込み可のテストって意味あるな……教科書のどこに書いてあったかは読んでないと分からないわけで。大学の時にあったテストで、記述問題なのに全暗記状態のやつあって、あれは謎だったな。小説なのに元の文章が問題文に載ってなかった気がする。小説無しで問題が並んでて、記述問題だったはず。先にこれをテストに出しますよって言われて、その解答を暗記して挑む形式。変なテスト。

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