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【芸能のはなし】シルク・ドゥ・ソレイユと日本の芸能の共通点は意外と多い

シルク・ドゥ・ソレイユ『アレグリア』公演を観てきた。面白かった……これまで何度か観てきたが、今になってようやく自分の視点を獲得することができた。今回はその話をしていく。

大道芸に近い

まず演目が大道芸っぽいことに気がついた。散楽に近い。

散楽(さんがく)は、日本の奈良時代に大陸から移入された、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称。日本の諸芸能のうち、演芸など大衆芸能的なものの起源とされている。

Wikipedia「散楽」

サーカスよりも大道芸って感じだ。サーカスは動物が出てくるイメージがあるせいでちょっと違うと思っているが、もしかしたら同じかもしれない。

>物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊り

この部分を覚えておいてほしい。「軽業・曲芸」とは、身のこなしが軽く体操選手のような動きをしたり、バランス感覚が優れていて危ない場所で難しいポーズができたり、普通の人には出来ない身のこなしのこと。早着替えとかも入りそう。奇術はマジック、人形まわしはマリオネット的なこと、踊りはそのまま。

※追記:後日調べていたら、散楽には象やロバが出てくるらしい。


シルク・ドゥ・ソレイユが大道芸と違うのは、世界観である。衣装、音響、舞台、照明。圧倒的な完成度の高さが特徴で、それがあるからこそ「シルク・ドゥ・ソレイユ」と云うのだろう。

鑑賞するとき、スポットライトが当たっているすごい動きをする人たちの方ばかりを観てしまうが、歌手や楽器隊のことも忘れてはいけない。シンガーの二人、マイクはつけているけど歌いっぱなしですごい。音楽も乱れず演技に合わせて音を鳴らしていてすごい。彼らも「演者」である。

また照明や舞台セットもすごい。裏方のバックアップって大事なんだなあ。カツラや服も直したりしてるんでしょう。部外者には想像もつかない仕事があるんでしょう。関係者全員で作り上げているものを我々は観ているのだと意識すると、これはすごいものが黄色と青のテント内に詰まっていると実感して震えてしまう。



ウィトルウィウス的人体図みたいなやつ

メインの演技の話をば。ネタバレあります。大きな円に人が入って側転のように回転する演技、ウィトルウィウス的人体図みたいなやつ、あれが特にすごかった(ジャーマン・ホイール)恐らく古くからあるものだと思うのだが、「これってこんなに美しくなるんだ!?」という衝撃を受けた。

例えば、上野公園でピエロの格好をしたおじさんが回転してても、遠巻きに見る程度だと思うんだよ(ごめん)。そういう人に遭遇したことないから想像だけども。あのでかい輪っかって、どちらかというとコミカルな印象なのよね。人が大の字になってタイヤのように転がってるの、どう考えても面白いじゃん。

ところが、身体のしなやかな動きに指先まで管理された所作、さらにステージから落ちそうになったとき止める役割の人にも徹底された美しいモーション、音響照明舞台セット、この組み合わせが違和感なくハマっていて演出に統一感がある。これは二つ目に出てくるので、これから観る人はご注目ください。


この演目の前、つまり一番最初は、よく曲がる棒を使って人がトランポリンのように跳ねたり、肩車の上の人に更にもう一人乗ったりする演目(アクロ・ポール)。これは、やたらでかい梯子の上で逆立ちするやつを思い出した。ちょっと違うけど似ている。

あとはフラフープ、空中ブランコ、トランポリンなど。過去には軟体人間やジャグリングもあったと記憶している。多分、明治時代に日本でやったサーカスとあんまり変わらないのである。(明治時代のサーカスを浮世絵でしかみた事がないから違ったらごめん。)それどころか、江戸、室町、鎌倉と遡っても多分似たようなことをやっている。とっくに人の身体を使った芸能はできるネタを出し切っているのだろう。しかし、昔と比べると確実に進化しているはずだ。使える道具が多いからだ。音楽と照明でだいぶ感動が増されている。



火の人で盛り上がる

シルク・ドゥ・ソレイユに戻り、一番盛り上がったのは、バトンの両端に火を付け投げたりくるくるしたりする演目(ファイヤーナイフ・ダンス)。「手や足に火を直接つけても平気」というのが人体を超えている感あってすごい。多分ちゃんと火傷しない仕組みがあるんだと思うが、「絶対に自分には不可能」と思わせるのがすごい。人間はトランポリンで失敗して骨折するより、火だるまになる方が悲惨だと無意識に感じているんだろうか。その恐怖を乗り越えている人が目の前にいる、その興奮があった。

「自分には不可能」というのであれば、どの役割もそうなんだよなあ。一見簡単そうに見えるフラフープも、フープの速さや位置を確実に調整できるくらい技術があるし、安定したI字バランスなんかもできる。「練習すれば出来る」どころじゃないじゃん。仮にそうだったとして、そこまで練習出来る人は少ないと思う。

でも、なぜか火の人が一番盛り上がった。「自分には不可能」にびっくりしたのか、燃え上がる火が心まで燃やしたのか。火って見てると興奮するじゃん。

火の人のとき、これは!となった出来事がある。客席から「いいぞ!」のような声が聞こえたのだ。他のところからは指笛が鳴った。まさに歌舞伎で言うところの「大向こう」ではないか。「成田屋!」「待ってました!」って急に客が叫び出すアレだ。思わず気分が高揚してしまった。



道外役のコントは狂言だった

この作品には、お笑い芸人のような二人が出てくる(兄弟設定らしい)。あれはもう狂言師だと思う。いわば笑いのない能の間に挟まる、笑いの芸能「狂言」の役割。狂言ってコントなんですよ。

この二人組はお笑い役と言っても、作品の世界観の枠にハマっている。この世界に合った作法・様式に従う。狂言もそうで、能舞台上ではお笑いパートだが、そうは言っても能舞台の上だ。声の出し方、歩き方、芝居のルールを破らない。

ちょっと「おっ」ってなったのが、狂言もシルク・ドゥ・ソレイユも、演者と楽器隊が同じ舞台上にいる点で共通していると気がついたこと。


道外の二人が掃除をするパートがあり、気が乗らないからせめて音楽を付けようとプレーヤーを再生する。ラジオのようなもので、キュキュイとやってチャンネルを合わせる。二人の好きな音楽にチャンネルを合わせ、ノリノリで掃除を始めたところで機械が壊れる。このあと、なんと舞台上の奥に控えている楽器隊に向かって「音楽お願いします」と言い、演奏をしてもらう。この「音楽お願いします」は完全に楽屋落ちである。「楽屋落ち」とは「メタ発言」に近い。現実の世界のことを言って、世界観をあえて壊すおかしさ。ここで思い出したのは『助六由縁江戸桜』の口上。

まず幕開きに裃姿の口上役が出て「河東節(かとうぶし)御連中の皆々様、なにとぞお始め下されましょう」の挨拶で開幕が告げられると、御簾内では「ハォーッ」という合の手に続いて華やかな三味線の音にあわせて浄瑠璃の演奏になる。

歌舞伎演目案内

「河東節」は、浄瑠璃の一種でいわば音楽である。この挨拶は、舞台上で観客を背に音楽隊に向かって「音楽お願いします」と言っているのだ。まさに、まさになのだ。うおおお。



滑稽によって悲しさが引き立つ

笑いの効果として、「舞台に注目を集める」「悲しみを際立たせる」「観客を飽きさせない」があると私は考えている。他にもあるが、ややこしいのでここでは触れない。

「舞台に注目を集める」「観客を飽きさせない」は常にあって、ちょっと意識すれば体感するだろう。私は「悲しみを際立たせる」を隠れた機能だと思っている。

今回の道外役二人は、とあることでコンビ解散してしまう。一人は旅立ち、一人は元々の場所に残る。離れてみてお互いの大切さに気がつく。旅立った方は強烈な吹雪に見舞われるも、相方からもらったスカーフを寒さしのぎにまとったり、寂しさを紛らすためスーツケースを相方に見立てたりする。スカーフを上に上げると下半身が寒く、下に下げると上半身が寒い。その動きが滑稽で思わず笑ってしまう。

しかしその影にある「相方の不在」が悲しくて、別れのモチーフでもあるスカーフにより相方を想起し、その不在を強く意識する。笑えるから悲しさが際立つのだ。

歌舞伎『三人吉三廓初買』では、一人の花魁が出産をして亡くなる場面がある。この場面の前には、位の低い遊女がドタバタして笑いをかっさらっていくシーンが置かれている。ここのほんわかした日常の風景と、もう長くない花魁の弱々しさが対比され、楽しく面白い場面なのに確かな悲しみがそこにある。

道外役の滑稽が本編をより効果的にしている。



流行りを取り入れる/物真似

一番のネタバレですが、この二人は「T兄弟」をやってくれる。これは火の人の次に観客が湧いた。流行りと言うには過ぎ去った感があるのだけど、このように流行り物を取り入れることは日本の芸能にもよくある。『曽根崎心中』「忠臣蔵」などが挙げられるように当時のゴシップを作品に仕立て上げたり、作品の途中の台詞に流行りの話を取り入れたりする。

あとは動物の声を物真似するところがあって、これも散楽っぽいな〜と思った。

観客を舞台に上げるやつもあった。今まで考えたことなかったけど、道端の大道芸人ってこういうことやってそうじゃない?むしろ、道端でやっているほうが観客との距離が近いし、その絡みのセンスで人気を得ていた芸人もいそうだなあと思った。


道外の二人について深掘りしたが、シルク・ドゥ・ソレイユの演者の中にはこの世界を壊す人がいないということだけは伝わってほしい。二人の道外役も世界の中にいる。ここが重要だと思う。



おわりに

ここまで書いといて今更なのだが、この作品にはストーリーやキャラクターがある。世界を作る、ストーリーを設定するのは作品を作る側にもメリットがあると思う。どんな演目をやるか、その順番を決めるのもやりやすい。枠を作ることで、道が出来上がるのだ。世界観とは、表現を縛るものではなく導くものなのだとわかった。

めちゃくちゃ書いたが、ほとんど感想というか考えたことだ。ダンス観に行く時もそうなんだけど、あまりストーリーを追わなくていいせいか、逆に頭がよく働く。ストーリーがあるとそれを追うことで精一杯になり考察が出来ない。それはそれで別の世界に行くという点で好きだ。物語を全部知ってたら話は別かもしれない。今回のシルク・ドゥ・ソレイユ鑑賞は色々考えられる楽しい時間だった。



次回更新 4/10:もしかしたらその次の週になるかも
今回はあまりの感動のため予定外に番外編を更新しました。早く更新したくて月曜日ですらない。
※だいたいリサーチ不足ですので、変なこと言ってたら教えてください。気になったらちゃんと調べることをお勧めします。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。